★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

外からやってくる闇オーラ

2024-01-18 23:51:24 | 文学


「いかにいかに。」と問はせ給へば、いとのどやかに、御刀に、削られたる物を取り具して奉らせ給ふに、「こは何ぞ。」と仰せらるれば、「ただにて帰り参りて侍らむは、証候ふまじきにより、高御座の南面の柱のもとを削りて候ふなり。」と、つれなく申し給ふに、いとあさましく思し召さる。

五月の雨の降る闇で肝試しをやらせる花山天皇に対して、道長は天皇から借りた刀で大極殿の柱を削って持ってきた。みんなで「あさましい」と言い合ってみても逆に道長に闇の中の亡霊のようなオーラを付与してしまう。オーラはその人自身ではなく外から来る。この場合は闇であった。

政治家というものは、このような闇をともなっていることが多いが、この闇のオーラは、彼がただの人間であることがバレると一気にただの頭の悪さに反転することもある。反転というか、――我々の言語の世界はもともとものごとを写しているのではなく、構成されているだけであるから、モノからの圧が感じられなければ簡単に意味が構成しなおされてしまうのである。

例えば、――わたくしは数学が苦手だし、だいたいいろいろ苦手なんであれなんだが、数もろくに数えられないような頭脳的ミスの輩が政治家面して数が数えられる事務をいじめている事例がおおすぎるのは、ちょっと現場を覗いてみたことのある人は知っているはずだ。原稿も帳簿も全部事務に作らせといてエラそうにしているのだが、偉そうにしてイルだけで、どこかの時点で闇のオーラを失っているから、キックバックだかなんだかを着服していてもいなくても、すべては時間の問題なのであった。

最近は、いかにも早くこういうオーラがないことがバレることが多いが、言語を武器として豊かに装備していないことも関係しているであろう。言葉だって、外から我々にやってくるものである。昨日は日本語というものが、コミュニケーションツールと言うより漢語や英語や何やらをつかって生産されるものであって、みたいな話を、授業でしてたんだが、――やはりすぐコスパとかタイパみたいな妙な外来的略語とか鬼おこみたいなものを想起させてしまったようだ。もっと漢文か古文から言葉を発掘すべきだし、新たな訳語も必要なのだ。そもそもフランス現代思想なんか、そういうものがあっておもしろかったんじゃねえのかね。。。

自民党も共産党も、外からやって着たトラウマが魂(言葉)の周りに闇のように纏わり付いているタイプがいなくなってもういろいろと終わりなんだろうけど、簡単に世の中終わらない。ほんとうは魂がトラウマに刺さるような人間が理想だ。そのためには、既成の言葉と論理に長けているだけではだめなのである。


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