★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

浪指神社を訪ねる(香川の神社67)

2017-10-01 03:26:38 | 神社仏閣
ここには早く行きたかったのだが、映画を見るついでによりました。この神社のあるところは上福岡町であるが、地元民でない私にとって不思議だったのは、『香川県神社誌』のなかで、なぜわしの家からこんな遠くの神社が、「太田村」の神社として載っているのか、であった。確かに、以前はここは太田村だったのである。明治23年の町制法による合併の時にそうなったらしいのであるが――。細かい事情は分からない。

また、なぜこの神社が「浪指」かも不思議であった。調べてみていないので何ともいえないが、このあたりには、ちょっと北側の御坊川のほとりに川中神社があるのはまあその川に関係あるとして、――北東側に州端神社というのがあって、こちらは浪指神社と共に名前が気になる。つまり、ここは浪や潮が来る境界にあたっているのではないかということである。で、平成16年の台風の浸水地域をみると、やっぱりここらあたりまで海水が来ているのであった。

ちなみに、ここより南の松縄にある「下所遺跡」という七、八世紀の道路の遺構は、この神社あたりまで続いているとみられていて、神社の少し北の御坊川河口あたりに「津(港)の存在が想定されている」。https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/file/20736_L72_puregennt-2.pdf


鳥居が新しくなっていた。


天保四年の燈籠。


注連石は昭和一四年。

 
狛犬は、皇紀二千六百年記念。(昭和十五年)


拝殿

 


本殿をのぞむ


興味深いのは、本殿のまわりに堀があることである。昔は、水を張っていたのかもしれないね。


いまの拝殿の下の石には、大正十三年十月とある。本殿の中には、小さい本殿みたいなものがみえる。そのまま古いものを囲ってしまったか……どうなんだろう。

『香川県神社誌』に曰く、

「傳ふる所によれば、嘉永年間平家の軍勢源義経に逐はれ香川郡篦原庄東部の海辺に来り仮睡せし節 神夢ありて、當地は白砂青松海また遠浅なり、風光厳島に劣らじ、汝等奉齋する所の平家の守護神を鎮め奉れと。ここに於て同地一本松に奉齋せり。」

また夢に何かがでおった訳だが、義経に追われた平家の残党が自分の守護神を祀ったことになる。篦原庄東部とはどこらなのかは正確にはわからんが、高松城のあたりが篦原庄であって、まあそこら辺である。「當地は白砂青松海また遠浅なり、風光厳島に劣らじ」とはまた、眠っていたにしては起きてるみたいだが――、ここの地がよほど気に入っていたのであろう。すなわち、平家の彼は、夢を見ていたのではなく、ここらの浜辺に厳島神社を幻視し夢見ていたのであった。厳島神社といえば、平家の守護神である。祭神は市寸島比売命(イチキシマヒメ)。アマテラスがスサノオの剣をかんだ時に生成されたお方。厳島神社の名前は、この「イチキシマ」からきているという説がある。神仏習合的には所謂「弁財天」となったが、これが、泉や湾口に祀られていることはよく知られているけれども、案の定、浪指神社もこのあたりじゃ「弁天さん」と呼ばれている。このあたりの字も「弁財天」という。

続いて曰く、
「今より百六七十年前現今の地に遷し浪指神社と改稱すと云ふ。(讃州府誌 名勝図絵)」

私の妄想だが、厳島神社が屡々台風で被害に遭っているように、この神社も元々あった場所で、大浪によって屡々流されているのではあるまいか。で、安全と思われる地点まで後退させていまの場所に移し、「浪指」とした。で、もともと厳島神社みたいに、海に迫り出してつくってあったのをまねて堀をつくり……




狛犬の口に接近してみた。


境内社は三つある。

  

『神社誌』よると、神明神社、八幡神社、地神社。向かいに「三者拝殿参道敷石 昭和十四年」とあった。注連石、狛犬とともに、昭和十四、五年あたりに今の神社の形が整備されているみたいです。


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