★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

パロディ

2024-06-19 23:04:11 | 文学


小峰を越して少し登れば大槍、これから上が最も嶮悪の処と聞いていた。が穂高の嶮とは比べものにならぬ、実に容易なもの、三時四十分、漸く海抜三千百二十米突の天上につく、不幸にもこの絶大の展望は、霧裡に奪い去られてしまった、が僅かに、銀蛇の走る如き高瀬の渓谷と、偃松で織りなされた緑の毛氈を敷ける二の俣赤ノ岳とが、見参に入る、大天井や常念が、ちょこちょこ顔を出すも、己れの低小を恥じてか、すぐ引っこむ、勿論小結以下。
 槍からは大体支脈が四つ、南のは今まで通った処、一番高大、その次は西北鷲羽に通ずる峰、次はこの峰を半里余行って東北、高瀬川の湯俣と水俣との間に鋸歯状をなして突き出している連峰、一等低小のが東に出て赤ノ岳に連る峰。これらの同胞に登って、種々調査をしたなら趣味あることだろう。


――鵜殿正雄「穂高岳槍ヶ岳縦走記」


わたくしは宮本百合子より断然佐多稲子だと思うのであるが、それは前者がどことなくなにかのパロディじみているからである。たぶん現実はパロディにならないが、思想はなるからだ。

パロディ化した文章が先にある場合、あとに起こるものは現実感を失う。なんと『スター・ウォーズ』のパロディ『スペース・ボール』の続編が作られるそうである。前にも書いたが、――わたくしはテレビで『スペースボール』の方を先に見てしまったせいか、『スター・ウォーズ』のほうを「なんだこの妙なまじめくさった感じは、笑いが少ないな」とおもった。『スペース・ボール』の主役のイケメン?は『インディペンデンスディ』の大統領役で、キャスティングしたひとはよくわかってると思ったが、――それはともかく、SFはパロディの一種であるとは言え、パロディのパロディを先に見たわたくしは、たいがいのSFをお笑いであると認識している。

芥川や菊池寛のときの『新思潮』の仲間に、成瀬正一というひとがいる。大正7年頃の彼の松岡讓への手紙を見ると、フランスに留学している日本人がすごくドイツ贔屓、排外主義的になってて、ますます自分は日本人が嫌いで仏蘭西が好きだみたいなことを書いている。第一次大戦が生んだ分断というのもかなりありそうだ。が、問題はそこではなく、成瀬のいう「日本」や「ドイツ」「フランス」すべて、なにか宮本百合子のような感じがしてならない。排外主義的になっている連中の中には、成瀬みたいな人間にあるパロディ味を看過できない連中が居たはずだと思う。――ちなみに、成瀬が手紙でハーバードの文学の教師に喧嘩売った自慢しているのみると、芥川の「あの頃の自分の事」なんかまだ紳士的である。この激情的な反発は一体何であろう。この感情は彼が九大でした文学教育にもなんらかの影響があるとみなければならない。