「あっ、これ人間だよ。人間が、ゴリラの皮をきているんだよ。」
ポケット小僧がさけびました。われたところから見えているのは、黒いシャツのようでした。
「それじゃあ、頭も、ゴリラの頭をかぶっているんだろうか。」
小林君が、大きなゴリラの頭を動かしてみました。手ざわりがへんです。ゴリラのはくせいの頭らしいのです。
「ポケット君、これをぬがせてみよう。」
そういって、ふたりが、力をあわせて、ゴリラの頭を、まわしたり、ひっぱったりしていますと、だんだん、胴体からはなれてきて、やがてスッポリとぬけてしまいました。
「なあんだ、こんなものかぶっていたのか。ごらん、目のところにガラスをはめて、中に豆電球がとりつけてあるよ。」
――江戸川乱歩「仮面の恐怖王」
かんがえてみると、このようなカラクリを暴いてみせる瞬間を引き延ばしてゆくことが、後の仮面ヒーローの物語となった。彼らはホントは変身していない。被っているのである。たしか石ノ森章太郎の原作ではよっこいしょとヘルメットを被る感じで仮面ライダーになっていた。
このカラクリの苦行をヒーローの苦行としてまじめに描いているのが『劇光仮面』である。
そういえば、「仮面」を被りたがるのは男の子に限らない。むかしから「鉄仮面」を被らされていた女の子がそれを脱いでから大活躍する物語があった。結局、男の顔は鑑賞に値しないが女子のそれは値するから脱いでしまうのであろうか。――それはともかく、たしか女子ライダーの最初のものはテントウ虫のそれであった。どこかで読んだが、「女子にライダーがいないのは不公平だ」とかいう理由だったという。しかしそれは、方便だったんじゃないか。小1以前の人間たちはたいがい女子のがでかい訳で、病弱のわたくしにライダーきっくをかましてきたのは半分以上女子であるからして、而して乱暴女子をおさえこむための公式「相対的に弱い女子ライダー」だったんじゃないだろうか。
思うに、男女ともに、あの仮面がフルフェイスのヘルメットである意味は、それが一種の「緊箍児呪」だからではなかろうか。それは適度に善行を行えば匿名性が正義となり、過度に暴力をなせば匿名の暴力、つまり権力となる。その適度な形を発揮するために、中国では顔が出ていても可能だとかんがるのに対し、我々は顔をかくさなければ、善も権力も発揮できない。