「御父さん、その杉の根の処だったね」
「うん、そうだ」と思わず答えてしまった。
「文化五年辰年だろう」
なるほど文化五年辰年らしく思われた。
「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」
自分はこの言葉を聞くや否や、今から百年前文化五年の辰年のこんな闇の晩に、この杉の根で、一人の盲目を殺したと云う自覚が、忽然として頭の中に起った。おれは人殺であったんだなと始めて気がついた途端に、背中の子が急に石地蔵のように重くなった。
――「第三夜」
漱石には、仁王を掘り出す話もあるが、小説自体の解釈はともかく、分かる発想であると感じる人は多い。それは、職業の持つ他性みたいなものとあいまっている。わたくしはもしかしたら先祖が漆器職人だからなのか、ときどき木を掘りたくてしょうがない。何を掘るかを定めずに手が勝手に掘り始めるきがするわけである。町のいろいろなところに落書きしたり何か掘ったりする連中は、案外、そういう欲望持ってるのかもしれない。ネット上の落書きだってほんとは木彫りみたいなものかもしれないのだ。
しかし、ただの木と違ってネットは、人の頭を掘るみたいな行為である。彼は盲目の内に、書き込まれる。
ネットにものを書くようになってから肩に重い子どものが乗っているような気がしてる人は少なくないであろう。自分ではなく人が見る文を書くこととは、漱石じゃないが、過去の他人の罪までも背負うことである。漱石は、そこに父による子の殺人みたいなものまで背負わしている。現在は確かに過去を殺す。