★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

絵画化とか認識

2024-06-10 23:14:26 | 文学


藤原的栄華のひとつの特徴は、装飾における、細部への入念な凝りやうにみられる。鳳凰堂や工芸についても述べたが、貴族女房たちの趣味や情感が、いよいよ繊細に、優美の極限を求めたことが、「細部」において理解されるのだ。密教密画の影響もあつたらうが、中世風の「省略の美」とはまさに対蹠的である。
 そして興味ふかいことは、地方の大豪族も新興武士階級も、この「細部」で藤原族に征服されたことである。平家一門と平泉の藤原三代がいゝ例だ。政治的経済的にも、また武力の上でも、彼らは藤原の栄華を覆滅させるくらゐの実力はもつてゐた。しかしこの種の造型美によつて、逆に呪縛された。そして彼らの方が没落して行つたのである。
 藤原の栄華に発した造型美は、自他を陶酔させるとともに、内部崩壊をもたらすやうな一種の魔力をもつてゐたやうだ。たとへば平家納経などに私はそれを感じる。平家一門が厳島神社に奉納した写経である。法華経写経の見返しに、なまめかしい女房の姿などを描き、その上装釘も実に凝つたものである。
 納経は信仰の行為である。信仰のまことを素朴に表現すれば充分なのだ。それを敢へて華美を求めたことは、阿弥陀堂美化の精神に魅了され、呪縛されたことを物語るものである。同時に、源氏物語絵巻の延長線上の最後のかたちと言つてよい。平家一門は、藤原に代つて一時政界の中枢を占めたが、その造型美によつて、またゝくまに征服されてしまつた。


――亀井勝一郎「物語の絵画化について」


絵が時間が止まっているなどと言うと、浅い意見だとも言われそうであるが、――そりゃまあそうなのであるが、やはり止まっているものはとまっているのだ。実際、物語や和歌は動いているのに、それを絵に起こそうという発想自体にルサンチマンがある。それがわからないほどに症状が深い場合が多い。

もっとも、それは同情の余地もあるのだ。とにかくある種の人々は忙しく、時を止めたい勢いである。

みなが忙しくなり、つまり自分が奴隷的であることを自覚して自意識過剰になり、お世話係をやる精神的余裕がなくなる。で、新たに発見されてしまったのがケアの論理で、結局お世話係を作り出すロジックとして利用されたのではなかろうか。ある種の多様性を保証するためのお世話係の存在は昔からあった。ほんとうはいまもそれが行われているに過ぎないのではなかろうか。

我々の業界の場合、加之、業績評価が給料に反映とかもっともらしいことが強制されたことで、ケアなんか人に任せて業績に集中できるようなタイプと、そうでない人が分離された。「お世話係」と「ケアされるそのほか」が分かれて、下手すると後者が「出世」する道まで出来上がっている。で、よくあるパターンが、両者の極点にある人間などが、その無様な現実の矛盾的な姿にいらいらして、自分はその矛盾にしたがわぬ、と蹶起するのである。――かくして、コマイ努力と均衡を矛盾と感じるタイプ、則ち空気を読めないのでむしろ優れていると思っている矛盾的快楽に酔う人間が権力を持って、ほんとにいろいろ読解ミスを起こし、断行に断行を繰り返すという事態が出現する。もともと周囲へのルサンチマンが原因であるから、むしろお上の断行に同調して断行を繰り返すことさえあり、しかし、人間のやることであるから、むろん、ときどきよいことも含まれており、――均衡に努力するタイプ=周囲はますますわけが分からなくなってゆく。ファシズム研究でもよく言われる、それは上と下からくる、というやつであろうか。むしろ、あっちとこっちからきて知らないうちに上の隣にいるというかんじである。

そもそも我々は他人に対するのと同様に、自分の行為をそれほど正確に認識出来ない。他人の読解力をくさす人は多いが、自分の言ったことも大概怖ろしく誤解していることが多い。この前自分の講演の録音聴いたら、怖ろしい暴言しちゃったと記憶してたところが案外そうでもなかった。案外社会的な顧慮がある話し方担当の自我があるとしかおもえない。これが逆転して、話し方担当が暴言担当になっている場合があるのだ。この場合、記憶ではもっと柔らかく認識されていたりするのである。