★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

現代の「知仁勇」

2023-08-09 23:35:00 | 思想


子曰、天下国家可均也。爵禄可辞也。白刃可踏也。中庸不可能也。

先生は言った、「天下国家を公平に治めることは出来る。爵位と俸禄を辞退することもできる。白刃に踏み込むことも可能である。中庸は不可能である。」と。

こういうところがおもしろいとこで、中庸は、統治(知)・奉職(仁)・戦争(勇)の困難さよりも大変なことらしいのである。最初の三者を実現することは簡単だみたいな言い方が、政治でいきがっている連中へのアイロニーなのか、ほんとに中庸が別の行為として見るべきと主張しているのかはわからない。朱子は、知仁勇の実践こそが中庸だと言っているらしいけれども、こういうことを言ってしまうと、自分で「おれは仕事をなんとかやってるから中庸を実現している」と主張する馬鹿がかならず出現する。中庸をあくまで理念として置いておくためには、こういう修辞が必要なときもあるに違いない。これはつまり実践的な主張であると思われる。

この理念が失われた世界では、知仁勇は容易に言葉として勲章化してしまう。例えば、むかしより説明責任などが要求されるようになった人間たち、政■家(知)、教★(仁)、医▼(勇)などに、かえって自分を学歴や役職や実績やらで支える馬鹿が増えたのはあまりにも分かりやすい人間的事態である。医★はたぶん、命のやりとりに関わるということで昔の軍人の役割を果たしている。命を救うんだから違うじゃないかと言いかねないところがまさに軍人である。戦争は命を救うためにやっていたのだし、問題はその命のどう扱うかの方針を知と結託して勝手に決めていたのが彼らだということだ。「所謂生命線の倫理」(山室静)の跋扈である。ますます強制される健康チェック的なものは、まあ、徴兵検査といってよろしいと思う。

学生の単位を人質にとるのと、患者の命を人質に取るのとはだいぶ違う。しかし、後者が患者に対して謙虚になるかというとそうとは限らないというのが世の中で、重大なことを扱うときほどハラスメント的になる。命を楯にとればどんな強制も可能だと考えるからである。国が医★と似ているのは言うまでもない。


最新の画像もっと見る