★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

何ごと言ふぞ。おいらかに死にたまひね。まろも死なむ

2019-08-22 23:06:53 | 文学


「いづことておはしつるぞ。 まろは早う死にき。常に鬼とのたまへば、同じくはなり果てなむとて」


帰ってきた夕霧にたいして「ここを何処だとおもってるんですか。私ぁとっくに死にましたよ。いつも鬼だと言うから、なってしまおうと思いまして」と怒り狂う雲居雁である。夕霧はちょっとバカなので、

「かく心幼げに腹立ちなしたまへればにや、目馴れて、この鬼こそ、今は恐ろしくもあらずなりにたれ。神々しき気を添へばや」


恐ろしいのになれたので神々しさが欲しいなどと、ほぼナチスみたいなことを口走るのであった。雲居雁、

「何ごと言ふぞ。おいらかに死にたまひね。まろも死なむ。見れば憎し。聞けば愛敬なし。見捨てて死なむはうしろめたし」

「何を言うのよ、速やかに死ね。私も死ぬから。(以下略)」という感じなのであるが、それでも彼女は語り手や夕霧にとってはかわいいらしいのである。

映画「主戦場」で、韓国のことを「かわいい」と言っていた人がいた。雲居雁の場合、まだ旦那の人となりが分かって「死ね死ね」言っているので結局それも「かわいい」みたいなことになるのかもしれないが、――そんなコミュニケーションはほとんどの場合通用しない。本当は上の二人だってかなり危機的なのだ。

今日は朝からちょっと思うことがあって鷗外の「かのやうに」を読み直したが、結局、父親と秀麿、そして綾小路は知性と生まれの事情があるから、小説があそこで終わってもよいのである。本当は、あの後が大変なのであり、――鷗外がそれを示唆したいが、書かなかったということが重要である。

みんな手応てごたえのあるものを向うに見ているから、崇拝も出来れば、遵奉も出来るのだ。人に僕のかいた裸体画を一枚遣って、女房を持たずにいろ、けしからん所へ往いかずにいろ、これを生きた女であるかのように思えと云ったって、聴くものか。君のかのようにはそれだ。


綾小路の想定を超え化け物みたいになってしまう「手応え」のことをどれだけ鷗外が考えていたのか分からないが、――考えていたからこそ、対話で事をおさめることをしたのかもしれない。芥川龍之介の「河童」なんか、その「手応え」の化け物化を一生懸命書いているのだが、芥川の書きぶりはどことなく河童を暴走させたいところがあり、扇情的だなあと思う。芥川龍之介も最後は根無し草的である。芥川龍之介は鷗外と違って自分の物語を持っていない。一生懸命保吉ものを書いたけど、あれではよけい不安になるだけだ。

生きているだけで価値がある、という価値に我々はおそらく耐えられない。スポーツも学問も精神活動である。そこに精神をゆだねることを確保しておかないと、隣国に腹タテタみたいなことに精神を見出すことになりかねない。スポーツも学問もエビデンスだけで運営されているような状態になってしまった。そのなかで生は「ただ存在しているだけ」になっている。これでは危険である。

強固な物語を保持している国と物語が崩壊してしまった国とでは分が悪い。せめて歴史をよく振り返っていただきたい。


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