★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

吾這五棍の棒を背に受用せよ

2024-08-16 23:25:37 | 文学


八戒仰天して、頭を叩きて罪を謝し、「師兄は誠に天眼耳道なり。吾再び行きて誠に山を巡りきたるべし。願くは罪を宥し給へ」行者はたと睨へ、「這劣貨、師命を得ながら却てわれを罵り、恣に睡りて啄木虫に釘覺され、なほ大謊をいひて師を惑さんとす。 以後の誠のため、吾這五棍の棒を背に受用せよ」と鐵棒を把て振上る。八戒大いに哭喪、師父に就て種種謝言しければ、三蔵悟浄言をつくして行者を宥め、再び八戒をやめて山を巡らしむ。 八戒悦び釘鈀をかけて走さりける。此度は孫行者跟行すといへども、疑心生暗鬼ならひ、八戒始に懲はてて、草の動き木葉の落るも行者がとおそれ、虫飛び鳥の啼も悟空が變ぜしにやとうたがひ、只管恐怖して道を急ぎけり。

ゴダールの「カルメン」で信じがたい美女としてみんなを驚かしたマルーシュカ・デートメルスは、「肉体の悪魔」の映画にも出ており、ラディゲの原作ってどういう物語だったかと、観る側を惑乱させるほどの裸踊り、皿割りでいまみても怖ろしいものである。しかし、一番我々が予想できないのは結末で、相手の少年が医者の息子のDNAなのか、デートメルスと肉体の悪魔ごっこをしていたにもかかわらず、案外優等生であって、デートメルスに涙を流させるほどの、アンティゴネについての解答をおこなうのである。

――それはともかくあれは高校の期末試験であろうか?、ダンテとかギリシャ神話の口頭試問あるのがいいわな。日本でもやったほうがいいのではないか、紫式部とか万葉集で。日本で、性の教育や議論が進まないのは、まだ文學を艶本みたいに扱っている教員がたくさんいるからに他ならない。我々は道徳心として、孫悟空が「吾這五棍の棒を背に受用せよ」と棍棒を猪八戒にふりあげる以上のものを持っているのか?

これは果たして、権力の移譲(丸山)であろうか。そうではないと思う。例えば、最近の若人は主体性がないとかいうが、主体性はあるのだ。むしろ、副委員長とか人を立てる仕事が苦手なのである。わたくしは昔からわりと副委員長に向いている気がするんだが、――しばしばみんなおれをテロリストかマレビトみたいに扱う。マレビトこそ副委員長の役目だったのを忘れたのか。三蔵法師一行は、三蔵と副委員長三人なのである。そして彼らは三蔵法師にもたらされたマレビトである。

権力の移譲の状況下では、たいがい死ぬ前の奉仕みたいな態度でしか我々は道徳心を発揮出来ない。幇間としての非人間化が人間であるような現象である。ここ10年ぐらい流行っているポストヒューマンというと、わたくし小さい頃、赤いポストより背が低かったことを思い出す。あるいは、それは色や形的に「ロボコン」みたいな人だ。最近のAIに何が足りないって、「ロボコン」の最終回で「公園ロボコン村」みたいなものを作る、映画「生きる」の如き甲斐性である。元気なときは、対して、動かずに口先野郎に過ぎない奴が多いので、それは素晴らしく見えるのであるが、やはり幇間は幇間である。

志村喬がちいさな背中をまるめてブランコを漕いでいる姿は、いかにも、彼を理解出来ない意気軒昂な連中の視線を避けるようだ。先月亡くなっていた、たけもとのぶひろの豆本全集が書棚の奧から出てきたのでみてみたが、ほんとにポケットに入るサイズだしガリ版の活字みたいなのでいいよねと思いきやもはや小さすぎて読みにくい。あと宮沢賢治とか魯迅の引用が、もはや陛下の祈り方に学ぶみたいな感じになっていた。彼も案外、ならず者から背中を丸めた人間に進化したのであった。

それがいやだというので、肉体を路上に晒すほうこうで、人間の精神を再生させようとした人々は七十年代以降たくさんいた。しかし、わたくしは、そういうむかしから特権的肉体とか言うてる奴がいやだった。彼らのテキストの内容に反して、やつらは本当に丈夫そうで、わたくしは結局、「幸福の王子」の、金をはがされて死んだ王子の足下で雪にまみれて死ぬツバメみたいなやつのほうがいいと思っていたからだ。

大学生のレポートに最近みられるという「Aをご存じだろうか。」という言い方がある。相手が自分より詳しいかも知れないという想定がないのがとてもおかしいが、いつの世にも半可通はいるものであって、しかも、彼らが活躍するのと変革期というのはだいたい重なっている。彼らは、たぶん、説明がないとできませんと言いいながら説明があってもそれができないことが多いが、これもそれほど絶望したものではない。絶望は、つい「幸福の王子」の王子とツバメみたいな悲劇を引き起こす。ツバメは王子のことを気にせずに南に飛ぶ行き方もあったに違いない。