で、どうしたら、暴力が、俺は、強くなるかと言ったら、ダイナマイトだすのね、硝煙爆弾にするのね、そんな話じゃないよ。 機関銃を持って出ると言う話じゃないよ。もちろん、持って出んよりは、持って出た方がいいよ。だけどね、持って出るのは誰が持ってるんだ。われわれの部隊例えば、二五〇の部隊がいるとする。二五〇の部隊で機関銃が十個しかないとする。誰が持つんだ。その持つやつは、ごつう無理をして、決意して持つだろうよ、しかし、そういうことなのか。俺はね、そんなのとは違うと思うんだ。そんなんでなくてね、明らかにやな、これはほんまにね、僕らが暴力に強くなるというのは、武器の器物信仰ではなくて、つまり、実際の話ね、火炎ビンほうり出してから、僕ら弱くなってんです。明らかに、肉弾戦の時の方が数倍強いんだよ。で今までは、ボンボン放ってね、放っとるから距離があるでしょ、つまり人間的ではなくなるわけやね、接近してれば、接近する程、人間的なんだよ。 暴力だって。場が空いていると、ごつう非人間化されちゃって暴力が疎外されるわけだよ。それはね、明らかに器物信仰だよ。それでなくて、ほんまに、われわれが、強い暴力を持つようになるにはね、何が必要なのか言ったらね、これは、現実と大衆によって教育されることがね、先ずもって大事だと思う訳です。 俺なら、絶対ひるまずね、まあ民青がそうだよ、 立命館でゲバルトやるとですね、民青のヤツというのは、絶対に引き下がらへんよ。石を放っても、前へ前へとね、来るわけだよ、ひるまんわけだよ。それなら、これは何かということだ。つまり、ヤツらは、反革命意識で、ガーと一枚岩的に組織されているという点もあるよ。だけど、僕らがね、絶対にひるまずね、一歩一歩ね、十歩でもいいけれどね、ガーと行くということがどうしたら可能になるかと言ったらね、俺はね、世の中というのはどないなっておってね、世の中の生活に呻吟しとるヤ
――滝田修「戦士の条件」
『ならずもの暴力宣言』の一節であるが、つまり革命は相撲だみたいな主張なのであろうか。一理はあると思うが、負けたらどうするのだ。滝田氏の言文一致体が残るのであろうか?
最近、どうやら35度以上の魔夏日なのに秋の気配を感じるという、真夏日と秋が魔合体したような現象がみられる。大事なのは正気を保つことだ。わたくしは、昼間からクレメンティを弾く。作品36のソナチネって世界で一番演奏されているクラシック音楽であろう。このことに比べれば、変動する気温など普遍的でもなんでもない気がしてくる。
我々は気温で何か精神的なものが崩壊するみたいな論法を取り過ぎる。エビデンスや参考文献を重視するのは当然だという事が正しくても、――それらは確かに踏まえられている、だからこそ間違っている事態もたくさんある。独りよがりの間違いも多いが、手続きを踏んだ故に間違うことなんかも多い。結局、過去の研究や批評が生み出される現実に目がいってないことは、現在にも盲目であることとあまり変わらないのである。確かに修正すればいいじゃないかみたいな考え方もあると思う。間違えているから修正する、にもかかわらずそのまた修正も間違いだから、ひたすら修正する――これが真実への道である、と。しかし現実はそうなっていない。盲目であることは根本的に修正可能ではないからだ。
見えるか見えないかどちらかだ。
だから我々は、見えないものと見えるものを対比させるという論法をついたてるのである。ファシズムのときに過去の文化が破壊されるみたいなことはよく言われるが、教育なんかもそうだ。よくもここまで過去を全否定できるよな、という言説が多い。何かを強く肯定するためのあれである。盲目と明視はそれほど対照的であろうか。
今日は、久谷雉氏の詩集『花束』がほかほかの郵便受けに入っていた。この詩人は、わりと最初からそうだと思うけど、何かと魔合体しているような趣が歌うようにでてくる。歌うことで、盲目と明視が分離出来ないものとして出てくる。
その点、映画とかアニメーションは、存在が少しずるい。俳優アランドロンと声優田中敦子が亡くなったが、考えてみるとだれが死んだのだろうという疑問がついでてきてしまうわけである。よくアランドロンの人気は声優のおかげという意見があるが、「攻殻機動隊」の草薙素子の人気は声優(田中氏)のおかげであろうか。むしろアランドロンとか草薙素子が存在していないのではないだろうか。
むしろわたくしにとっては、藤村は岩波文庫よりも藤村全集のほうが読みやすい。旧字旧かなの強弱ある活字がしっくりくる、みたいな感触だけが確かである。