★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

惨敗の夏、日本の夏(2024)

2024-08-23 23:24:17 | 文学


これらの経験はこの空想的な老学者に次のようなことを考えさせた。いったい野球その他のスポーツがどうしてこれほどまでに人の心を捕えるのであろうか。
 野球もやはりヒットの遊戯の一つである。射的でも玉突きでも同様に二つの物体の描く四次元の「世界線」が互いに切り合うか切り合わぬかが主要な問題である。射的では的が三次元空間に静止しているが野球では的が動いているだけに事がらが複雑である。糊べらで飛んでいる蠅をはたき落とす芸術とこの点では共通である。
 近ごろボルンが新しい統計的物理学の基礎を論じた中に、ウィルヘルム・テルがむすこの頭上のりんごを射落とす話を引き合いにだした。昔の物理学者らが一名を電子と称するテルの矢のねらいは熟練と注意とによって無限に精確になりうると考えたに反して、新しい物理学者は到底越え難いある「不確定」の限界を認容することになった。いわば昔はただ主観の不確定性だけを認めて客観の絶対確定性を信じていたのが今では不確定性を客観的実在の世界へ転籍させた。この考えの根本的な変遷はいわゆる「因果律」の概念にもまた根本的の変化を要求する。しかしそれは単に原子電子の世界に関する事ばかりでなく、これらの原子電子から構成されているすべての世界における因果関係に対する考え方の立て直しを啓示するように見える。
 いかに現在の計測を精鋭にゆきわたらせることができたとしても、過去と未来には末広がりに朦朧たる不明の笹縁がつきまとってくる。そうして実はそういう場合にのみ通例考えられているような「因果」という言葉が始めて独立な存在理由を有するということには今までおそらくだれも気がつかなかったのではないか。


――寺田寅彦「野球時代」


最近の野球をみていると、「確定と偶然との相争うヒットの遊戯」(寺田寅彦「野球時代」)の時代が終わったことを実感する。寺田寅彦の前提にしていたような自由の先にその「争い」があったとすれば、いまはそれがない。

もっとも「プロ野球」にこそその偶然が生起するみたいなところがあった。絶対にそんなことは起こりえないレベルの世界があったからである。わたくしの出身高校なんかいつも負けて帰ってきた。わが吹奏楽部と同じである。

というわけで、ことしも全てが負け続けの夏である。

木曽青峰 1-2 上伊那農業……くそっ、惜しいな。
健大高崎 (群馬) 1 - 0 英明(香川)……あらっ
中京大中京 (愛知)4 - 3 宮崎商(宮崎)……宮崎がかわいそうじゃないか
日本航空 (山梨)4 - 8 掛川西 (静岡)……山が多いからといって空を飛ぶとかがあれなのではないか。
長野日大 (長野)1 - 9 青森山田(青森)……やっぱ日大よりドカベンのほうがつよいの
智弁和歌山 (和歌山)4 - 5 霞ケ浦 (茨城)……常総学院はどうしたんだ
中京大中京 (愛知)3 - 4 神村学園 (鹿児島)……中京大中京とかなんか因数分解したくなるな。
霞ケ浦 (茨城)2 - 6 滋賀学園 (滋賀)……霞ヶ浦は魚が捕れるのでイイと思う。

以上、第二第三第四第五の故郷は全て惨敗です。

関東第一 (東東京)1 - 2 京都国際(京都)

高校名の文字だけで哲学的・概念的にもスバラシい戦いであった。

相好を崩して田んぼに足をツッコむ

2024-08-23 22:58:03 | 思想


J・P・ヴェルナンの『形象・偶像・仮面』を読みはじめたが、「コレージュ・ド・フランス」の講義緑である。「はじめに」で、フーコーやレヴィ・ストロースと並んでわたくしなんかがこういうのだしていいの?みたいなことを言っており、それが自由をつかもうとする姿勢みたいで面白かった。しかし、本文はどこか格式張ったところがある。これに比べると、福尾匠氏の『非美学』(厚い)は最初から自由である。日本での文化はいつもこういう相好を崩したところがある。

相好を崩しすぎると、怪しさすらでてきてしまうので怪しまれていたのは、例えば松岡正剛である。明らかに東洋的な「やつし」系の文人気質なのに、ビジネスマンみたいでもあった(「活動」のあり方なんかも毀誉褒貶あったが、東浩紀なんかとの比較でいろいろ議論されるにちがいない――)からますます怪しまれていた。そして、レトリック系の批評家達の伝統にも連なりそうなので、松岡氏の本が修辞的だという印象はわからんでもないような気がしないでもない。が、文学研究で博識さと修辞とのあり方を永遠議論している(あまりしてねえか)ところからするとまあそれは何の説明にもなってないし、あれは、花田や渋澤系の過去のスタイルとも違い、――ネット時代以降に、ある意味これからくるものであったに違いない。しかし、結局それでも、あそこまでやる人物そのものの存在感が重要であることは変わりがない。それどころかますます稀少性があったに違いない。――しかし、本当のところいうと、結局、超脱の仙人のあり方を崩さない人としてあまり好きではない人々が多いのも理解出来る。支配階級に気に入られているという噂がタッタだけでだめだ。我々はもう少し田んぼに足をツッコんでいる俗な根性を保持しているからだ。

現代ではなかなか「やつし」ということが理解されないが、やつしは怖ろしくいろいろな意味で裸をさらす行為で、様々な人が根性を見抜かれてリンチにあった。で、やつしの手前で草庵で隠居することを覚えた文人達が大量にいるというわけであった。