これらの経験はこの空想的な老学者に次のようなことを考えさせた。いったい野球その他のスポーツがどうしてこれほどまでに人の心を捕えるのであろうか。
野球もやはりヒットの遊戯の一つである。射的でも玉突きでも同様に二つの物体の描く四次元の「世界線」が互いに切り合うか切り合わぬかが主要な問題である。射的では的が三次元空間に静止しているが野球では的が動いているだけに事がらが複雑である。糊べらで飛んでいる蠅をはたき落とす芸術とこの点では共通である。
近ごろボルンが新しい統計的物理学の基礎を論じた中に、ウィルヘルム・テルがむすこの頭上のりんごを射落とす話を引き合いにだした。昔の物理学者らが一名を電子と称するテルの矢のねらいは熟練と注意とによって無限に精確になりうると考えたに反して、新しい物理学者は到底越え難いある「不確定」の限界を認容することになった。いわば昔はただ主観の不確定性だけを認めて客観の絶対確定性を信じていたのが今では不確定性を客観的実在の世界へ転籍させた。この考えの根本的な変遷はいわゆる「因果律」の概念にもまた根本的の変化を要求する。しかしそれは単に原子電子の世界に関する事ばかりでなく、これらの原子電子から構成されているすべての世界における因果関係に対する考え方の立て直しを啓示するように見える。
いかに現在の計測を精鋭にゆきわたらせることができたとしても、過去と未来には末広がりに朦朧たる不明の笹縁がつきまとってくる。そうして実はそういう場合にのみ通例考えられているような「因果」という言葉が始めて独立な存在理由を有するということには今までおそらくだれも気がつかなかったのではないか。
――寺田寅彦「野球時代」
最近の野球をみていると、「確定と偶然との相争うヒットの遊戯」(寺田寅彦「野球時代」)の時代が終わったことを実感する。寺田寅彦の前提にしていたような自由の先にその「争い」があったとすれば、いまはそれがない。
もっとも「プロ野球」にこそその偶然が生起するみたいなところがあった。絶対にそんなことは起こりえないレベルの世界があったからである。わたくしの出身高校なんかいつも負けて帰ってきた。わが吹奏楽部と同じである。
というわけで、ことしも全てが負け続けの夏である。
木曽青峰 1-2 上伊那農業……くそっ、惜しいな。
健大高崎 (群馬) 1 - 0 英明(香川)……あらっ
中京大中京 (愛知)4 - 3 宮崎商(宮崎)……宮崎がかわいそうじゃないか
日本航空 (山梨)4 - 8 掛川西 (静岡)……
長野日大 (長野)1 - 9 青森山田(青森)……やっぱ日大よりドカベンのほうがつよいの
智弁和歌山 (和歌山)4 - 5 霞ケ浦 (茨城)……
中京大中京 (愛知)3 - 4 神村学園 (鹿児島)……中京大中京とかなんか因数分解したくなるな。
霞ケ浦 (茨城)2 - 6 滋賀学園 (滋賀)……霞ヶ浦は魚が捕れるのでイイと思う。
以上、第二第三第四第五の故郷は全て惨敗です。
関東第一 (東東京)1 - 2 京都国際(京都)
高校名の文字だけで哲学的・概念的にもスバラシい戦いであった。