★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「何でも食べてやろう」批判

2024-08-07 23:19:45 | 思想


 話はかわるが、日本は世界最大の麺大国だ。そば、うどん、ラーメンをはじめとして、ほとんどの麺と名のつくものを日本人ほど食べている民族はないように思う。
 日本が麺大国に君臨している理由のひとつは、その食べ方と食べる習慣、食べる技術によるものが大きいと思う。食べる技術などというと大仰だが、簡単にいうと「ススル」「ススレル」という身体機能、動作である。 具体的にはどんぶりを両手で持ち上げて空中で麺をススリ、スープ、汁などを飲むことができる。あるいは飲める習慣が一般的になっていることである。逆にいうと、欧米人などは麺をススルことがなかなか難しいという。口の構造や食べ方の技術に民族的にススル動作がないからだ。だから彼らは行列ができるようなおいしいラーメン屋に行っても、豪快にずるずるススリ、まだアッアツのスープをどんぶりごと持ち上げてごくごく飲むなどということが、ほとんどできない。


――「すばらしいススリ文化」


かように椎名誠が以前、日本人だけが蕎麦をススる文化を持っててみたいなことを言ってたが、わたくしはこのススる食べ方が好きでない。あれは、職場で自分の足音をことさら響かせて歩くおかしい奴とおなじにみえる。わたくしは断固しずかに食べるね。高峰秀子様も食べ物にあれこれご託を並べるのを嫌っていた。その割に食べ物のエッセイは多いが。。パリから帰ってきて蕎麦を食べ始めたみたいな文章で、蕎麦が「庶民の味、下駄ばきの味、風呂返りの味」とか言われているのを紹介しながら、自分は「説明不要の主義」なんだと言っていた。無論、「下駄ばきの味」というのは、池波正太郎かなにかが下駄ばきで蕎麦屋に行き酒を飲むみたいな文章をさりげなくバカにしているのである。

美食家みたいな作家の文章って、ホントに嫌な奴らだと思わせる。しかしいわゆる昭和的なものはこういういやらしさと切り離せない。ここ三〇年ぐらいで、「食文化」とか言いだしてからはこういういやらしさが消えて、我々の文化は栄養補給、ただの食事になったかもしれない。ただ、そのすがすがしさもあると思うものだ。わたくしは幼児の頃からほとんど食に興味がなく、いまも異様にないと思う。中年以降の学者たちがどこかしらグルメな奴らになっているというのに。食は、スポーツ的な社交と関係がある。学会参加をしたがる人たちは、終わってから美味いものを食いに行くというのが好きなのである。学会発表が授業なら、懇親会以降は部活である。

そういえば、金メダルを噛む風習がどこから来たのか知らないが、たぶん金メダルをとるというのは金メダルを食べたい欲望と少し結びついているんじゃないだろうか。何でも食べてやろうみたいな欲望がスポーツである可能性はある。わたくしが小田実が好きでないのは、「何でも見てやろう」という題名が、なにか食欲のようなニュアンスを帯びているような気がしたからである。