★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

知れる者はただ一人

2022-06-24 23:28:46 | 思想


此に日蓮案じて云く世すでに末代に入つて二百余年・辺土に生をうけ其の上下賤・其の上貧道の身なり、輪回六趣の間・人天の大王と生れて万民をなびかす事・大風の小木の枝を吹くがごとくせし時も仏にならず、大小乗経の外凡・内凡の大菩薩と修しあがり一劫・二劫・無量劫を経て菩薩の行を立てすでに不退に入りぬべかりし時も・強盛の悪縁におとされて仏にもならず、しらず大通結縁の第三類の在世をもれたるか久遠五百の退転して今に来れるか、法華経を行ぜし程に世間の悪縁・王難・外道の難・小乗経の難なんどは忍びし程に権大乗・実大乗経を極めたるやうなる道綽・善導・法然等がごとくなる悪魔の身に入りたる者・法華経をつよくほめあげ機をあながちに下し理深解微と立て未有一人得者・千中無一等と・すかししものに無量生が間・恒河沙の度すかされて権経に堕ちぬ権経より小乗経に堕ちぬ外道・外典に堕ちぬ結句は悪道に堕ちけりと深く此れをしれり、日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり。

この部分は、虐げられた者=疎外された者の復活、疎外されたものにこそ真実があるというレトリックであるようにみえる。自らの生まれと仏になれぬ事態をもたらしているものは、この世の中から同じく疎外されている者にしかありえないようにみえる。

マルクスもフェミニズムもだから、運動の最盛期にあたっても自らの権力を持つ姿を想像はしていないし、持つ必要がない。しかし、自らは円の外側に居たのではなく、周辺のない円の中で何かに衝突していたのである。すくなくとも、その観点を失うと我々は力のいれ具合を人に対して間違える。