★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

キントウン的なもの

2022-06-19 22:53:19 | 思想


二には教主釈尊は住劫・第九の減・人寿百歳の時・師子頰王には孫・浄飯王には嫡子・童子悉達太子・一切義成就菩薩これなり、御年十九の御出家・三十成道の世尊・始め寂滅道場にして実報華王の儀式を示現して十玄・六相・法界円融・頓極微妙の大法を説き給い十方の諸仏も顕現し一切の菩薩も雲集せり

「十方の諸仏も顕現し一切の菩薩も雲集せり」――こういうところが、われわれはたぶん好きで、空を眺めて仏みたいな雲にぼんやりしている。それが怪獣やウルトラマンになったりしているだけだ。いや、これは宇宙人に近い。戦隊をくんでやってくる何ものかにちかい。

神の国が近づいた。というキリスト教は、その点、ハリウッドのSFのように巨大なものが掩ってくる描写が好きなのではないだろうか。ただの妄想である。

キリスト教の国でも我が国でも、我々の行動が「思想」に拠っていることは確かである。そうおもわなくてもそうなのであり、いまなんかはブラックをさける、みたいな「思想」の「ために」我々は働いている。仏は雲集する。雲は、仏であろうか。そうとは限らず、キントウンのようなものかもしれない。ブラックを避けるというキントウンもあるかもしれない。キントウンとは手段である。

最近なら、ブラックの原因が部活云々に集中的に考えられていること自体がブラックさを表しているにも関わらず、部活をやめるという手段が目指されてしまう。教育指導要領的な精神が狂ってますみたいな批判ならまだ分からないのでもないが、本質に向かう方向は昨今の「思想」ではない。そういえば手段的なものには、評価という「思想」の存在もあった。仕事は雑用に見えるようなものでも誰かがやらないとまわらないものが多いが、それが「評価」から外れると雑用が必要性から外れてしまってるんでみんな一生懸命やってるのにかえって組織はなぜかうまくいかなくなる。なぜか、ではない。あたりまえである。で、労働時間の縮小とかを機械的にやろうとするとよけいにその誰かがやることによってまわっていたことがますます出来なくなって、組織はすかすかのザルみたいな状態になってしまうのである。仕事というのは手段よりももっと思想らしい「思想」でやるもんで、そうでないとタスクと雑用が分かれて見えてしまうのであった。教育業界は、その「思想」の部分に馬鹿な作文が居座ることによって、人間、いや労働者の精神を食っちまったのである。もう絶望的である。

日本の教育は、ながく、学校と塾・予備校(戦前は「家」かもしれない)の二重構造をもっていた。これはわかの序詞と和歌本体のような関係であり、我々の認識の何かを表しているとさえ思うのである。思うに、部活というのも、学習塾的な部分があったように思う。先輩がもう一度和歌をかみ砕いて暗誦してあげる、学級会的な道徳を生き方として教えるようななものである。ところが、それが完全に教師の統制下に入って意味がなくなっているのだと思う。むろん、これは内申書を入試に使うようになったからだし、勢い、子どもも部活でモノを学ぶのを諦め、授業のように上の空で過ごすことを選んだのではなかろうか。現代人が極端に受け身なのが、評価社会のせいなのか、ひ弱に育っているからなのか、――おそらくどっちもなのであろうが、無意味に思えるものが発生するときには、原因は、そのもの自体にはない場合が多い。