人天大会けをさめて・ありし程に爾の時に東方・宝浄世界の多宝如来・高さ五百由旬・広さ二百五十由旬の大七宝塔に乗じて教主釈尊の人天大会に自語相違をせめられて・とのべ・かうのべさまざまに宣べさせ給いしかども不審猶をはるべしとも・みへず・もてあつかいて・をはせし時・仏前に大地より涌現して虚空にのぼり給う、例せば暗夜に満月の東山より出づるがごとし七宝の塔・大虚にかからせ給いて大地にも・つかず大虚にも付かせ給はず・天中に懸りて宝塔の中より梵音声を出して証明して云く「爾の時に宝塔の中より大音声を出して歎めて云く、善哉善哉・釈迦牟尼世尊・能く平等大慧・教菩薩法・仏所護念の妙法華経を以て大衆の為に説きたもう、是くの如し是くの如し、釈迦牟尼世尊の所説の如きは皆是れ真実なり」等云云
1由旬が8㎞ぐらいだとすると、「多宝如来・高さ五百由旬・広さ二百五十由旬の大七宝塔に乗じて」とある如来は、――これはでかい。こんな大きいものがやってきて、大地より沸き上がり夜中の満月のように光り輝きながら、釈尊の言ってることは正しいぞ、とやったのであった。
中学の時の修学旅行で奈良に行ったときに、いろんなでかいものをみて、仏教というのは「大きい」んだなと思った。わたくしは、有利な環境で育っていた。なにしろ、町の中で大きいのが学校以外はまだ寺の本堂だったりしたからである。ビルの出現は、我々の信仰を崩壊させた。未知と遭遇やインディペンデンス・デイの巨大UFOが何か崇高なものの地位を奪ったのも同じである。宗教は、悩みの解決のツールになってしまったのである。
如来が雷音に呼びかけた時、尼提は途方に暮れた余り、合掌して如来を見上げていた。
「わたくしは賤しいものでございまする。とうていあなた様のお弟子たちなどと御一しょにおることは出来ませぬ。」
「いやいや、仏法の貴賤を分たぬのはたとえば猛火の大小好悪を焼き尽してしまうのと変りはない。……」
それから、――それから如来の偈を説いたことは経文に書いてある通りである。
半月ばかりたった後、祇園精舎に参った給孤独長者は竹や芭蕉の中の路を尼提が一人歩いて来るのに出会った。彼の姿は仏弟子になっても、余り除糞人だった時と変っていない。が、彼の頭だけはとうに髪の毛を落している。尼提は長者の来るのを見ると、路ばたに立ちどまって合掌した。
――芥川龍之介「尼堤」
芥川龍之介がブッキッシュな人だったというのは一面に過ぎず、彼の目標は人間を過去から点検し思い切り広げて考えることにあったのだろうとおもう。しかしそれはあまり実感的ではなく、内面にこそ大きさがあると確信して内向していったところがある。