★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

爪上の土

2022-06-18 23:10:08 | 思想


法華経の流通たる涅槃経に末代濁世に謗法の者は十方の地のごとし正法の者は爪上の土のごとしととかれて候はいかんがし候べき、日本の諸人は爪上の土か日蓮は十方の土かよくよく思惟あるべし、賢王の世には道理かつべし愚主の世に非道先をすべし、聖人の世に法華経の実義顕るべし等と心うべし。此の法門は迹門と爾前と相対して爾前の強きやうにをぼゆもし爾前つよるならば舎利弗等の諸の二乗は永不成仏の者なるべしいかんがなげかせ給うらん。

爪上の土はほんと僅かなものであろうが、それは土をいつも触っている人間の言うことであり、清潔もやしの我々にとっては、むしろ大きい何かに属しているような気がする。我々にとっては、大きいミスや小さいミスの区別すらよく分からなくなりがちである。

「しまつたしまったしまった。」彼は何辺も何辺も心の中で繰り返した。然しもうおつつかない。彼は此上もなく残念だつた。指が無意識に動いて爪を切つてゐた。爪は幾つとなく火に燃えた。……道子は笑ひながら見てゐる。
 一番大きな親指の爪を三日月の様に切つて、徐ろに彼はそれをつまんで火の中に落した。ジリジリツと音を立てゝ燃えていつた。ほんのわずかな煙りがフツと昇つた。
 ――もうどんな仰山な真似をしたところで徒らに道子の冷笑を買ふばかりだ、と思ふと今更彼は悲しさが込み上げて来た。さう思ひながらも彼は爪をとつてゐた。道子は無論平気で菓子を食つてゐる。


――牧野信一「爪」


それを分別したり無視したりしても、いろいろなものがそこに残っている場合は、我々は発狂を免れる。物事は徐々に朽ちてゆくからだ。上の人間たちのように燃やしたりしてはならぬ。