★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

二辺と街道

2022-06-25 23:43:36 | 思想


日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり。これを一言も申し出いだすならば、父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし、いわずば慈悲なきににたりと思惟するに、法華経・涅槃経等にこの二辺をあわせ見るに、いわずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕つべし、いうならば三障四魔必ず競い起こるべしとしんぬ。二辺の中にはいうべし。

大事なのは、日蓮ただ一人が真実を知っていることであった。しかしここでそのことを「一」言しゃべってしまえば親や兄弟、師匠からは止められ、国主からも処罰がくだるにちがいない。しかし言わなければ自分はまさに慈悲なきものだろう、と悩んで、法華経・涅槃経などに照らし、この二辺――「二」つの道をくらべてみる。と、言わなければ今生では無事でも後生では必ず無間地獄に落ちるであろう、言ったなら「三障四魔」などの迫害が襲いかかるのは明らかである。わたしは二辺のうちの言う道を選んだのだ。

あれかこれか、の二辺を検討するうちにどちらもとんでもない困難が待ち受けていると知った。で、それならば真実の道を、と言うわけだが、――わたくしはやはりここでは「一」というのが自らの自己同一性であるかぎり、「二」辺はだめだし、「三」障「四」魔はもっての外なのだ、と言っているように見える。親や兄弟、師や国王も数えるまでもなく、五、六どころのはなしではないであろう。はやく「一」に帰らねばならない。勇気が自己同一性と区別がつかない状態というものはあるのだ。

さっき、大学生における自己肯定感に関する論文を読んだ。わたしが自己肯定感のような議論にあまり乗れないのは、それが上のような多を拒否する人間を無視して、他人との協調を自己肯定の栄養としてしまう人間を褒めているような気がするからだ。

かわいい二本のレールは、乱雑に積み重ねられた伐材の中に消えていた。あわてて二、三尺の赤土をかき登ると、思いもかけなかった大道がかなりの急カーヴを描いて目の前にあった。大雨の跡をしのばせる水たまりが諸所に光って、湿った白砂の上には太いタイヤの跡が……。大平街道だ。道ばたの切石に腰をおろして、こうした山歩きの終わりにはだれもがするように悠々とパイプに火を点じて、FINE の煙文字を蒼穹に書いた。
 われわれの物ずきに近い足跡を語る前に、まずその地理について説明を加えなければならぬほど、そこは辺陬に属する場所であり、同時に山の持つ秘密な境地であったかもしれない。……中央アルプスを思い切って南下する大平街道は、木曾と伊那とが有機的につながりを持つ唯一の廊下だ。


――細井吉造「二つの松川」


細井は新聞記者で登山で遭難死したために友人が『伊那谷木曽谷』という遺稿集を編んでいて、その冒頭に掲げられているのが上の文章で、まるで山に埋没してゆくような愉快な文章のひとである。こういう人にとっては、自分の人生の分かれ道は、登山のなかで突然現れる街道みたいなものであって、悩みのすえにでてくる道とはまた違ったものであったにちがいない。