★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

不良の甥を如何せん

2022-03-04 23:02:32 | 思想


復有一表甥。性則很戻鷹犬、酒色昼夜為楽。博戯遊侠以為常事。顧其習性、陶染所致也。

お大師のすごいところは、我々の心は魚や鳥のように違うよと、生悟ってばかりいないところにある。

最近は、人新世だか種の論理だかしらないが、またまた八〇年ぶりぐらいの生悟りブームであり、そのうちに教育や政治がめちゃくちゃになっている。いや前者は結局、後者からの逃避でありニヒリズムなのである。ファイティングポーズをとっている人間をよく見てみるがよい。背後に敵がいる。

お大師さま、下々よりも100倍以上頭がいいのに、ハンティング、酒女博奕にふけるぼんくらの甥を心配している。ちゃんと教育が為されれば更正されるのというのだ。たぶん、そんな教育をしてもハンティング酒女博奕をやるやつはやるぜ、と大衆教育をやってみた現在の日本國民は思うのであろうが、――御大師はそういう数だけ多い大衆のことを言っているのではない。目の前のだらしない甥が許せなかったのである。

空海が出家した理由が、こういう目の前のぼんくらの教育であったところがしゃれている。いまは、こういうちょっと勘違いな必死さも教育者からはなくなりっつある。寄り添いとかコミュニケーション能力とか協同的な学びとか、お上の指令のオウム返しを激痛に耐えながら実質化しようとがんばっている、心弱き教育者たちがたくさんいて、――こころあるひとがそれは現実的でも理念的でもありませんよ、むしろ役に立たないという研究結果が出てますよと言っても聞く耳を持たぬ。画一化すら起こさないその政策は理念が間違っているので現実化もしないわけである。で、そのなんかうまくいかない現実を、造反的な人間に帰していじめを始める。先の総動員体制の時に起こったのはそれだったし、いまもそれを反復している。連合赤軍事件やオウム事件が、理念の暴走を可視化させたので、そのいじめはゆっくり進行し、それゆえの見えにくさでやめることも出来なくなっている。

協働とか協同とやらが、戦時中に孤独な?インテリを脅しつける用語だったのはよく知られていようが、協同を求める人間たちはその目標自体が協同の結果であることを自覚しているために、その目標を否定すると自分を否定してしまうことになるからまずいわけだ。むかし、文化研究の勃興の時もそういう風景をみた。作品を独立していない政治的な所産とみることは、研究者みずからの処世の現実をあからさまに示していたのである。

閑話休題。――ともかく空海は、この甥を救わなくては、よっし「三教指帰」書いちゃうぞ、と言って実際に書き、甥は置いてけぼりにして大思想家となった。こういうのが教育者である。甥をおいてけぼりにするのがいいのは、ある種のキリスト教の理念を真面目に受け取り過ぎた人みたいに、目の前の人を救おうと頑張りすぎると、敵を皆殺しにしたりするからである。

最近も「進撃の巨人」というマンガがそれをえがいていた。親を巨人に食われたエレンやミカサたちは、軍隊に入るが、まずそこを疑えと。なぜ世の中を歎いて出家しないのだ。エレンとミカサは好き合っているのならなぜいちゃいちゃしないのだ。