★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

一即多の文体論

2022-03-10 23:27:26 | 思想


竊惟清濁剖判最霊権輿。並稟二儀同具五体。於是賢智如優華惷癡若鄧幹。是故仰善之類猶麟角。耽悪之流既欝龍鱗。操行如星意趣疑面。玉石殊途遙九等。狂哲別区遠隔三十里。各趣所好如石投水。並赴所悪似脂沃水。

清ではなく濁の中から人間が生まれ、二儀(陰陽)の影響を受けながら体を作っており、故に賢人や智者は三千年に一度咲く優(曇)華のようにまれにしか存在せず、愚人はそこらの森の木の数ほど多い。だからっ、善を望む人は麒麟の角より稀で、悪に流れる輩は龍の鱗よりも多いのだ。(←なんだか、ここでフィクション度が上がっている。わざわざ「是故に」と言っているし。。。)。人の行いは星によって異なり心も顔のように違うものだ。玉と石は全然違うし、狂人と哲人は三〇里違う(←もっと遠くにしといた方がよいのではっ)。各々、好きな方向に進めば、石を水に投げたようになるし、好きじゃない方向に進めば、水と油みたいになってしまうぞ。

要するに、濁からうまれた我々は基本的に重いのであろう。軽い人だけが、優曇華の花のように上に向かって咲けるし、麒麟の角みたいに上にむかって伸びる。我々は本性に忠実に水の中で沈んでいるべきで、本性に逆らうと、無駄に表面上で争い、水と油みたいなことになるのであった。

亀毛先生はたしかに自分でも言っているように、あんまり話がうまいようにはみえない。やたら比喩を連発して饒舌である教員みたいなものだ。比喩は、小学校なんかだと、その喚起力で考えさせ楽しませる効果があるよね、みたいな説明を行うことが多いかも知れない。が、その実、それを使う人間の欲望が顕わな危険な手法なのである。――この場合、ほんとは比喩じゃなくて世界の生成に人間を置いて考えた結果、人間の心が自然現象の具体物に対応して配置されているような説明になっているわけであろう。

この対応は、ほんとは影響関係かも知れない。最近は、猫や犬みたいになっているひとも多い。我々は何かを実現するためにありえない事物さえ作り出すし、そこから自ら影響を受けたりする。

以前、新潮社から『パンデミック日記』という物書きや音楽家さんたちのリレー日記みたいな本があって買って読んだ。その五二人の文体は違っているはずなのに、きわめて文体も内容も均質化されているような印象をうけた。(生活がコロナでより似てしまったというのはあるが、原因はそれだけとは思えない。日本での日記は半ば公開されることを前提に書かれていることがあるし、いまのツイッターやブログだってそんなもんだが、さすがにほんとの日記は他にあるだろうというかんじが彼らの文章から感じられる。確かに、彼らは日記に書かれるような生活においてはむしろ非現実的であり、作品で現実的になるわけだ、というのは優等生的な回答過ぎると思う。)――そう感じたわたくしの主観が問題だ。文体というのが案外長いものの印象だということがあるかもしれない。個々の表現の違いは、文章の長さにかなわない。リレー日記を一人が書いたように我々は読んで文体を感じる。文体は、まさに「体」であり、文は「体」を持った場合に、相互に影響を与え合って我々に対してその印象をつくっているのである。