
于時兎角公語亀毛先生曰。蓋聞王豹好謠巳変高唐。縦之翫書亦化巴蜀。橘柚徙陽自然為枳。曲蓬糅麻下扶自直。
謡とか学問が好きな人がいるとみんな染まるよ、という理屈にくわえて、橘が枳になり、蓬が麻の中で真っ直ぐになるようにと加える兎角公。要するに環境による反映論みたいなことを主張している。現代での教育論もこんな理屈がほとんどである。ところが、亀毛先生はまったく納得しない。
先生曰。我聞上智不教。下愚不移。古聖猶痛。今愚何易。
論語にあるとおりである。賢者はどんなところでも賢者であり、愚者はどこでも愚者である。環境とは関係ない。いまも先生たちは、教育を断念するときにこんなことを常に言っている。兎角公は諦めない。
兎角公曰。夫体物縁情先賢所論。乗時摛藻振古所貴。[…]又有鈍刀切骨必由砥助。重絡軽走抑亦油縁。無智鐵木猶既如此。有情人類何不仰止。
環境決定論も能力内在論も人間を単なる物=自然物として見ている点で間違っているのである。我々は物に対して情を持ち、詩を作ってそれを表してしまうことを尊ぶ人間である。これは文学の問題ではなく、物を自然に対してより有効に使う人間の本質である。骨を切るには砥石を使い、車には油が必要なのである。木や鐵を使うときでさえそうなのに、人間には情があるんだから、教えには反応する筈だ、というわけである。
いま、サイバネティクスに関する論文をちょっと読んでいるんだが、――情報社会になったということは、よけいにその情を持つ人間に対する情、ではなく作品が必要じゃないかと思うのである。人間は物である。しかし物の表面のかわりに情がある。これは根本的にケア的なものの重視に傾斜していかざるを得ない事態である。
だから、日本の宗教論を開始したとも言われる三教指帰が、教育論であったことは重要かもしれない。甥のボンクラにしても、ぐれているとはいえ、ヤマトタケルみたいに、兄貴を刺し殺してオヤジに報告するようなレベルではない。孔子が言っていた愚者とはほんとうにそういうものであったのであろうか。
安部・菅のような言葉よりもまずヤってしまうタイプの後に出てきたのが、まずは言葉を整えてしまう首相であり、――こっちのほうが大概の日本人にとって居心地が良く、これまたタイミング良く戦争まで起こってしまって、コミットメントをまずは避けようという空気がそれを合理化しているようにみえるのはわたくしだけではあるまい。岸田首相の言葉は、専門家が認めたくないほど、ケア的なのである。
サイバネティクスの理論が、戦争の技術からでてきて、戦争の事実によってその脆弱さが顕わになっているのかもしれない。三島が、日本では過激な保守からしか革命は出てこないし近代化もなされないと言っていたが、――これは日本だけの話ではなかった。表面の情、情報をケアするだけではだめだといって、いまなら西洋化した日本はやっぱりダメだという主張がでてくることは必然だとしても、その先はだれもいつもやっていない。大概は、かかるダメだという主張だけが人を攻撃するだけに終わっている。