★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

狂的なあまりに狂的な

2022-03-24 23:13:13 | 思想


爰則移孝竭主。流涕接僚。佩干將以鏘鏘。搢圭笏而済済。進退紫震俯仰丹墀。入議万機譽溢四海。出撫百姓毀断衆舌。名策簡牘栄流後裔。高爵所綏美謚所贈。豈非不朽之盛事哉。誰莫伉哉何亦更加。

いまでも政治家などは「佩干將以鏘鏘。搢圭笏而済済。進退紫震俯仰丹墀。入議万機譽溢四海。出撫百姓毀断衆舌」みたいな夢を抱いているのであろうか。この先生は鋭い。度し難い不良は、こういう夢に酔い、本当にその夢を実現することを知っているのであろう。忘れがちなことであるが、昔から政治家という者は常識的な意味では普通の人ではなく異常である。

わたくしは、虚栄心というものの分類が一般的に足りない様に思うのである。我々が上手に木彫りの人形を作ったことを自慢したり、かけっこで一番になったので威張りたいとおもったりするのと、天下を取ろうとすることは全く別物の欲望である。いや、これは本当は欲望ではなく、一種の理性なのである。つまり、「褒められたいという理性」という異常形態が極大にふくれあがったものであって、チェスタトン的な意味で狂的である。

こんど攻め込まれている国もあたりまえであるが国内は一枚岩ではない。戦争というのはそこにあった重要な問題を消してしまうことがある。その問題とは普通の欲望の延長線上にあるものだ。日本だってそれでいろいろといままで苦労しているわけであるが、戦争はいつも歴史を単一のレンズ=理性的処理をする狂人がからんでいるに違いない。狂人に普通の欲望は分からない。我々が、近代の日本を考える場合、数回の戦争のことを無視するわけには行かぬ。すべて戦争に結びつく様にみえてしまうのは歴史が虚構じみているのではなく、レンズによって狂ってしまったからである。

ゼレンスキーは、日本に対する演説の中で、新美南吉の「二ひきの蛙」について触れたそうである。喧嘩をしていた二ひきの蛙が冬眠から覚めて再戦しようとする。これはあたかもソ連とウクライナを表しているようでもあるが、冬眠から覚めた二ひきはこうなる。

池には新しくわきでて、ラムネのようにすがすがしい水がいっぱいにたたえられてありました。そのなかへ蛙たちは、とぶんとぶんととびこみました。
 からだをあらってから緑の蛙が目をぱちくりさせて、
「やあ、きみの黄色は美しい。」
といいました。
「そういえば、きみの緑だってすばらしいよ。」
と黄色の蛙がいいました。
 そこで二ひきの蛙は、
「もうけんかはよそう。」
といいあいました。


思うに、この蛙がてっぽうを持ってなかったから良かった。「ごんぎつね」の兵十みたいに持っていた場合はひどいことになるわけだ。冬眠して仲直りする前に死んでしまう。てっぽうは合理的理性である。しかし、我々はこの理性の奴隷である。

最近の学者への反感は、たぶん、学者が政治家の様な狂い方をしているからである。だから庶民はあたかも「羊の自意識過剰より狼の自意識過剰を問題にしすぎ症候群」に罹ってしまうのである。その結果、かえって羊は反省しない動物として暴走する羽目になる。

昨日、大黒岳彦氏の「情報社会の生成と構造――サイバネティックス運動の理路」という『思想』に連載中の大論文を読む読書会に参加した。大黒氏の企図をやや措いた感想としては、やはりサイバネティックスの起源にも狂気としての理性=戦争があって、それ故、それが結果的に生物学、精神分析、脳科学、哲学等等を巻き込んだ運動と化してしまったために、運動自体が社会化し、しかのみならずそこにテクノロジーによるある種の実現が起こって大変なことになってしまった、という印象を受けた。大黒氏の論文に乱舞する哲学用語、科学用語は、単なる協働ではなく、総力戦の体を示しているようだった。全てがサイバネティックスの運動であるかのように見えてきてしまうこと自体が、サイバネティックス運動の本質であるかに見える。

普通、学会をつくって学問が進んでいるという状態は進歩の象徴である様に見えるが、「船の舵を取る者」を意味するギリシャ語のキベルネテスを語源とするサイバネティックス的な舵取りはある種の異常な状態であり、それが必然として社会全体に広がってしまったのは、我々の社会の学問化としてディストピアである。フィードバックとか客観的に観察可能な行動とか、こんな言葉がシラバス作成の指針にもなっている始末である。