★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

水を汲め

2022-03-28 23:41:27 | 思想


隠士曰、夫爀々弘陽。輝光煽朗。然盲瞽之流。不見其曜。磤々霹靂。震響猛厲。然声耳之族。不信彼響。矧太上秘録。言邈凡耳。天尊隠術。如何妄説。歠血遺盟。太難得聞。鏤骨示信。何曽易伝。所以者何。短綆汲水。懷疑井涸。小指測潮。猶謂底極。苟非其人。閇談喉内。実非其器。秘櫃泉底。然後見機始開。擇人乃伝。

儒教の道徳家は、しばしば観念と自分が離れていることを自覚しながら、結局、その間になんのつっかえぼうがなく、観念的自分みたいな癒着「主体」のようなものになってしまう。そこに出現するのは「主体」としての暴力である。それを指摘するには、まずは、お前は太陽に対して盲瞽である、と対象と自分をばっさり切り離されなければならないのだ。その切断は、プラトンの洞窟のなかの太陽によって生じる影の存在、のような退路を与えない。教育にはこういう言い方が必ず必要な局面がある。もっとも、この道教先生がおもしろいのは、ここで言をやめないことである。悪口の連鎖に見えるが、震響や天尊、歠血や鏤骨のイメージが、盲瞽のイメージを解体する。お前はバカだ、と言いながらそれを徐々に言わないのである。

しかも、このあと「短綆汲水」、鶴甁縄で水を汲む話をしてくる。短い縄ではダメダというんで、バカでも何となくいける気がしてくるわけである。短い縄を使う人は、つい井戸が涸れてると思ってしまうのだが違う。ただ、井戸は経験的にそんなことはわかるぜ、という反論が来そうだと思ったのか、小さい指では海の深さは計れないという反論を許さぬ例でそれを封じている。で、しかし、そんな深いところに指を届かせる理由が分からんから、秘櫃泉底――ひみつの箱があるんじゃと言ってのける。

行き当たりばったりの説得術に見えるが、行き当たりばったりというよりそれは教えを実体的に観念化しないためのうまい方策なのである。

早速右の肩が瘤の様に腫れ上がる。明くる日は左の肩を使ふ。左は勝手が悪いが、痛い右よりまだ優と、左を使ふ。直ぐ左の肩が腫れる。両肩の腫瘤で人間の駱駝が出来る。両方の肩に腫れられては、明日は何で担がうやら。夢にも肩が痛む。また水汲みかと思ふと、夜の明くるが恨めしい。妻が見かねて小さな肩蒲団を作つてくれた。天秤棒の下にはさむで出かける。少しは楽だが、矢張苦しい。田園生活もこれではやりきれぬ。全体誰に頼まれた訳でもなく、誰誉めてくれる訳でもなく、何を苦しんで斯様な事をするのか、と内々愚痴をこぼしつゝ、必要に迫られては渋面作つて朝々通ふ。度重なれば、漸次に馴れて、肩の痛みも痛いながらに固まり、肩腰に多少力が出来、調子がとれてあまり水をこぼさぬ様にもなる。今日は八分だ、今日は九分だ、と成績の進むが一の楽になつた。
 然しいつまで川水を汲むでばかりも居られぬので、一月ばかりして大仕掛に井浚をすることにした。赤土からヘナ、ヘナから砂利、と一丈余も掘つて、無色透明無臭而して無味の水が出た。奇麗に浚つてしまつて、井筒にもたれ、井底深く二つ三つの涌き口から潺々と清水の湧く音を聴いた時、最早水汲みの難行苦行も後になつたことを、嬉しくもまた残惜しくも思つた。


――徳冨蘆花「水汲み」


近代では、描写というモメントがあったんで、だいたいこういう苦労があったね、という話になってしまうのであった。観念のかわりに視野が画面の様に我々を縛るのである。