★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

海に向かって心にもあらぬことをする事態について

2020-10-22 23:51:12 | 文学


さて、十日あまりなれば、月おもしろし。船に乗り始めし日より、船には紅濃くよき衣着ず。それは「海の神に怖ぢて」といひて。なにの葦蔭にことづけて、老海鼠の交(つま)の貽貝鮨、鮨鮑をぞ、心にもあらぬ脛にあげて見せける。


さて、今夜は十日過ぎであるからして月がとてもきれいで。船に乗り始めた日より私らは船の中で紅の濃い派手な着物は身につけない。それは「海神を恐れてのこと」と言うことです。がっ、何が葦(悪し)かということで、老海鼠(陰茎)と交わる妻であるところの貽貝鮨や鮨鮑(女性器)を、つい脛のあたりまで高々とまくり上げて海神にみせつけました。

人情本かなにかかと思ってしまったが、隠語はそもそも隠喩の起源に関係があるのではないかとおも――ったのは、中学生のわたくしであるが、それはともかく、海神はこんなことされて黙っているのでたいそう大人である。

 其の夜は月があったが黒い雲が海の上に垂れさがっていたので暗かった。八時すぎになって港の左側の堰堤の上に松明の火が燃えだした。其処には権兵衛が最初の祈願の時の武者姿で、祭壇を前にして額ずいていた。
「わたくしの体が痺れたは、竜王が犠牲をお召しになる事と存じますから、喜んで此の身をさしあげます」
 権兵衛はまず冑を除って海へ投げた。蒼黒い海は白い歯を見せてそれを呑んだ。権兵衛はそれから鎧を解いて投げた。冑も鎧も明珍長門家政の作であった。権兵衛はそれから太刀を投げた。太刀は相州行光の作であった。
 翌朝になって下僚の者が往ったところで、権兵衛は祭壇の前で割腹していたが、未明に割腹したものと見えて、錦の小袴を染めている血に温みがあった。


――田中貢太郎「海神に祈る」


海から遠く離れたところで育ったので想像がつかないが、海はどうも人間に過激なことをやらかすような気がする。わたしは、ムルソーが山奥で犯罪を犯したのではないことを思い出す。海に投げてしまえば証拠が残らないからかもしれないが、あの巨大な水が人間の心に影響を与えない訳がナイ。これに比べると、坂口安吾なんか、海にむかって自分の小ささを自覚するみたいなところがあり、やはり自分の存在のことをよく考えた人は、海に対しても謙虚だったのである。いまでも太陽のせいとか海のせいにしがちな人は多いであろう。