★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

羽ならば飛ぶがごとくに

2020-10-21 23:51:12 | 文学


今し、羽根といふ所に来ぬ。若き童この所の名を聞きて、「羽根といふ所は鳥の羽のやうにやある。」と言ふ。まだ幼き童の言なれば、人々笑ふ時に、ありける女童なん、この歌を詠める。
  まことにて名に聞くところ羽ならば飛ぶがごとくに都へもがな
とぞ言へる。男も女も、「いかでとく京へもがな。」と思ふ心あれば、この歌よしとにはあらねど、「げに。」と思て、人々忘れず。


「本当に名の通りに「羽根」という土地が鳥の羽だったらそれで飛ぶように都に帰りたいな」と、当時の女の子のレベルの高さを誇示しつつ日記は進んで行く。確かに上手くない歌なのかもしれないが、この女子、自分がどのように歌えばみんなが喜んでくれるかある程度計算済みなのである。案の定、人々は、「なるほど」と思って、「忘れず」。この忘れない、という言葉は重い。忘れないというのは大変なことだ。この時代は、まだ忘れないことが現代よりも知的な価値として存在していたに違いない。――いや、われわれだって怪しいもんだ。忘れたらしょうがない、みたいな性格を我々は持っているに違いない。日本国憲法も近代の理念もすべて忘れちゃったから、しょうがないみたいな人達は多いのだ。

三国志ではよく、あなたは英雄として正史に名を刻まれるであろう、とか言っている。関羽が世話になった曹操を逃がしてしまっても、孔明は「語り継がれるでしょう、彼は」と言っている。我々の文化には前者は受け継がれず、後者が受け継がれている。

炬燵から見ていると、しばらくすると、雀が一羽、パッと来て、おなじ枝に、花の上下を、一所に廻った。続いて三羽五羽、一斉に皆来た。御飯はすぐ嘴の下にある。パッパ、チイチイ諸きおいに歓喜の声を上げて、踊りながら、飛びながら、啄むと、今度は目白鳥が中へ交った。雀同志は、突合って、先を争って狂っても、その目白鳥にはおとなしく優しかった。そして目白鳥は、欲しそうに、不思議そうに、雀の飯を視めていた。
 私は何故か涙ぐんだ。


――泉鏡花「二、三羽――十二、三羽」


我々は、こういう風景だけは昔から見てきたに違いない。すぐ思い出せる気がする。これは漱石がいうようなリアリズムとナチュラリズムの両立とはまた違った問題なのだ。