★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

2020-10-16 21:27:41 | 文学


かくあるを見つつ漕ぎ行くまにまに、山も海もみな暮れ、夜更けて、西東も見えずして、天気のこと、梶取の心にまかせつ。男もならはぬは、いと心細し。まして女は、船底に頭をつきあてて、音をのみぞ泣く。かく思へば、船子、梶取は舟歌うたひて、何とも思へらず。
  春の野にてぞ音をば泣く 若薄に 手切る切る摘んだる菜を 親やまぼるらむ 姑や食ふらむ かへらや


ここには「舵取の心」による歌があるが、歌の方は、心というより顛末をうたったものであり、心はむしろ船底に頭をくっつけて泣いている女たちにある。ここらあたりで、貫之が女のふりをしている理由がわかるね、船酔いに男のくせに弱かったんだね――という冗談はともかく、文学には、こういう、自分だと思ってみる枠を心として解放してしまうということがある。心とは我々の肉体より大きく形がない。

  夜べのうなゐもがな 銭乞はむ そらごとをして おぎのりわざをして銭も持て来ず おのれだに来ず
これならず多かれども、書かず。これを人の笑ふを聞きて海は荒るれども、心はすこし凪ぎぬ。


心は、そのまま舵取りたちの下品な歌をとりこみ、少し凪ぐのであった。それは水が凪ぐことと全く一緒で、船酔いに直結している心の現象である。

 この時分には秋になつたといつても、夕日の烈しさは昨日となつた夏にかはらず、日の短さも目にはたゝない。凌霄花はますます赤く咲きみだれ、夾竹桃の蕾は後から後からと綻びては散つて行く。百日紅は依然として盛りの最中である。そして夕風のぱつたり凪ぐやうな晩には、暑さは却て眞夏よりも烈しく、夜ふけの空にばかり、稍目立つて見え出す銀河の影を仰いでも、往々にして眠りがたい蒸暑に襲はれることがある。然し日は一日一日と過ぎて行つて、或日驟雨が晴れそこなつたまゝ、夜になつても降りつゞくやうな事でもあると、今まで逞しく立ちそびえてゐた向日葵の下葉が、忽ち黄ばみ、いかにも重さうな其花が俯向いてしまつたまゝ、起き直らうともしない。糸瓜や南瓜の舒び放題に舒びた蔓の先に咲く花が、一ッ一ツ小さくなり、その數もめつきり少くなるのが目につきはじめる。それと共に、一雨過ぎた後、霽れわたる空の青さは昨日とは全くちがつて、濃く深く澄みわたり、時には大空をなかば蔽ひかくす程な雲の一團が、風のない日にも折重つて移動して行くのを見るであらう。それに伴ひ玉蜀黍の茂つた葉の先やら、熟した其實を包む髯が絶えず動き戰いでゐて、大きな蜻蜓がそれにとまるかと見ればとまりかねて、飛んで行つたり飛んできたりしてゐる。一時夏のさかりには影をかくした蝶が再びひらひらととびめぐる。蟷螂が母指ほどの大きさになり、人の跫音をきゝつけ、逃るどころか、却て刃向ふやうな姿勢を取るのも、この時節である。

――永井荷風「森の聲」


近代になると、目は外界に釘付けになり、心はどこかに行ってしまう。心は、無理矢理に主体の名を借りて復活せざるを得ない。