★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

言葉と身体

2020-10-14 23:36:38 | 文学


ラッヘンマンの「マッチ売りの少女」を聞いていたら、我々の世界というのはまだまだ描かれる余地があると思わざるを得なかった。我々のなかには日本の世界があるが、ここに流れ込んだいろいろな物があって、さまざまな変化をとげている。いまもそれは進行中であって、我々がそれを意識出来るとは限らない。

これかれ互ひに、国の境のうちはとて、見送りに来る人あまたが中に、藤原のときざね、橘のすゑひら、長谷部のゆきまさ等なむ、御館より出で給びし日より、ここかしこに追ひくる。この人々ぞ、志ある人なりける。この人々の深き志はこの海にもおとらざるべし。
これより、今は漕ぎ離れて行く。これを見送らむとてぞ、この人どもは追ひ来ける。かくて漕ぎ行くまにまに、海のほとりにとまれる人も遠くなりぬ。船の人も見みえずなりぬ。岸にもいふことあるべし。船にも思ふことあれど、かひなし。かかれど、この歌をひとりごとにして、やみぬ。
  思ひやる心は海をわたれどもふみしなければ知らずやあるらむ。


わたしが興味があるのは、上の「志」という言葉で、厚意ともとれるが、それだと何か据わりが悪い気がする。人々が遠くに離れてしまうこの場面では、やっぱり志みたいな、空中を飛びそうな言葉が選ばれた気がするのである。わたしは、歌の中の「思ひやる」よりも「志」のほうがいい気がするくらいだ。「思ひやる」は、「思ひやる越の白山知らねども一夜も夢に越えぬ夜ぞなき」という自身の歌をふまえているらしいが、これは恋の歌なので……。

我々の文化には、なにか感情を、油絵のように重ねて描いてしまう癖がないだろうか。

なんと、今日は、中曽根康弘の追悼を17日にやるんで、黙祷お願いしますみたいな文書が國から大学などに来たというんで話題になっていた。これだって、戦没者とか原爆の時の追悼のあれと同じなんだが、とにかく、――我々の一部は、同じような行為を反復して、元の感情を上書きしてしまいかねない。和歌だって、そんな機能を一部で持っていたに違いない。

わたくしも若い頃、入学式とかで「ニュルンベルクのマイタージンガー」を演奏させられていたが、それは、フルトヴェングラーがナチス時代に工場で演奏した一九四二年のような意味もなければ、帝国主義的な意味があるわけではない。本当は君が代だってそうなのだ。意味がまったくない。

こういう身体強制がいやなひとたちがどうするかというに、好きなことをして寝っ転がるみたいな行為もなにか別の意味での「強制」にみえるので、とにかくぼーっとする。最近、我々自身も学生もぼーっとし始めた。

菊池はそういう勇敢な生き方をしている人間だが、思いやりも決して薄い方ではない。物質的に困っている人たちには、殊に同情が篤いようである。それはいくらも実例のあることだが公けにすべき事ではないから、こゝに挙げることは差し控える。それから、僕自身に関したことでいうと、仕事の上のことで、随分今迄に菊池に慰められたり、励まされたりしたことが多い。いや、口に出してそう言われるよりも、菊池のデリケートな思いやりを無言のうちに感じて、気強く思ったことが度々ある、だから、為事の上では勿論、実生活の問題でも度々菊池に相談したし、これからも相談しようと思っている。たゞ一つ、情事に関する相談だけは持込もうと思っていない。

――芥川龍之介「合理的、同時に多量の人間味――相互印象・菊池氏――」


菊池寛もまた、初期の小説でしばしば我々の身体がどのように強制されるかを考えていたと思う。芥川龍之介は、菊池寛が女性関係を苦手にしているといいたいのかも知れないが、――なんとなく、菊池が恋愛を、身体から恋愛を強制するような形で発想している気がして、芥川龍之介はいやだったのかもしれないのだ。昨日のゼミで、芥川龍之介を読んでいて、彼の言葉とイメージに「力」を求める妙な感覚を感じた次第だ。それは言語への信頼とは違う。