★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

押鮎の口をのみぞ吸ふ

2020-10-08 23:11:16 | 文学


元日。なほ同じ泊なり。
白散を、ある者、夜の間とて、船屋形にさしはさめりければ、風に吹きならさせて、海に入れて、え飲まずなりぬ。芋茎、荒布、歯固めもなし。かうやうの物なき国なり。求めしもおかず。ただ、押鮎の口をのみぞ吸ふ。この吸ふ人々の口を、押鮎、もし思ふやうあらむや。


「ただ、押鮎の口をのみぞ吸ふ。この吸ふ人々の口を、押鮎、もし思ふやうあらむや」(ただ押鮎の口をしゃぶるばかりなのだ。この吸い付いている人々の口。押鮎はもしかしたら何か思うんじゃないかしら?)

思いません。なぜなら、押鮎は死んでいるからだ。

だいたい、魚の屍体を刺身とか言ってうまいうまいと更に虐殺している人間はいったいなにを「思」っているのであるか。同じような疑問を、上田秋成が「夢応の鯉魚」で持っている。いま読み返している時間がないのであれなのであるが、思うに、主人公は坊主で絵描きであって、そんな人物でなければ魚の境地には達しなかったのだ。その坊主は、一度死んだが、魂が魚になってある宴会に引きだされて食われかかるのだ。――これは入神の境地だ。そうでなければ、せいぜい、上のように、魚はキスされてどう思う?みたいな下品な疑問しかでてこない。最近は、擬人法みたいな浅ましい技法がそれとわからないほどに一般化して、動物にも人間にも暴力的になってしまった。

今年は東京の釣人で、富士川は大いに賑った。けれど、少し遠いために遠州の天竜川の鮎はあまり人に知られていない。天竜は富士よりも水量の多い川だ。それだけに、鮎はより多く大きく育つ。
 何年振りかで今年の天竜川は、よく澄んでいた。この頃釣れる鮎は、百匁を超えるものが少くないと土地の釣友からたよりがあった。卵を抱えた大鮎の味噌田楽――想像しただけで唾液が舌に絡る。


――佐藤垢石「秋の鮎」


いまだに、食べものについて話す人は余り好きじゃない。