★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

月とわれ

2020-10-27 23:39:33 | 文学


十七日、曇れる雲なくなりて曉月夜いとおもしろければ、船を出して漕ぎ行く。このあひだに雲のうへも海の底も同じ如くになむありける。うべも昔のをのこは「棹は穿つ波の上の月を。船は襲ふ海のうちの空を」とはいひけむ。きゝされに聞けるなり。又ある人のよめる歌、
「みなそこの月のうへより漕ぐふねの棹にさはるは桂なるらし」。
これを聞きてある人の又よめる、
「かげ見れば浪の底なるひさかたの空こぎわたるわれぞさびしき」。
かくいふあひだに夜やうやく明けゆくに、取等「黒き雲にはかに出できぬ。風も吹きぬべし。御船返してむ」といひてかへる。このあひだに雨ふりぬ。いとわびし。


美しい場面で、こういう場面をきちんと説明できるようになってみたいものだと思う。ここには三つの歌が提示されていて、みっつめに向かって世界が広がっている。リアリズムからファンタジーにいたり、その上でその綜合に至るようなありかたである。その綜合に「われ」という存在が必要だったなんていうと近代みたいだが、――月影がわれであり、波が大空であるような変容への観察が、観察するわれを導きだす。それはわれそのものではなく「さびしき」という感情である。これにつられて、雲まで出てきて雨まで降り出すのだ。こういう表現のあり方にくらべて、現代のやたら擬人法をもちいたあり方は、また別種の何かになってしまっている。

獣類と、鳥類と、昆虫との別を問はず、殆んどすべての生物は、夜の灯火に対して不思議なイメーヂと思慕を持つてゐる。海の魚介類は、漁師の漁る灯火の下に、群をなして集つて来るし、山野に生棲する昆虫類は、人家の灯火や弧灯に向つて、蛾群の羽ばたきを騒擾する。鹿のやうな獣類でさへも、遠方の灯火に対して、眼に一ぱいの涙をたたへながら、何時迄も長く凝視してゐるといふことである。思ふに彼等は、夜の灯火といふものに対して、何かの或る神秘的なあこがれ、生命の最も深奥な秘密に触れてゐるところの、不思議な恋愛に似た思慕を感じてゐるにちがひない。

――萩原朔太郎「月の詩情」


考えてみると、こういう説明をしている人間を海の底の月影としてみることがあるのかという感じがする。