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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

以前の目論見から

2016-08-03 04:01:13 | 思想


小池氏とか安倍氏が勝つ昨今、なにか釈然としないので、ちょっと引用する……。昨年の12月19日に小林節氏が高松に来た時に、主催者の会の一人として登壇するためにつくった原稿。実際は、教室の中にいる観衆の圧に日和ってかなり端折ってしまったのであるが、だいたいこんなことをしゃべった。

 日本近代文学を研究しております。9月18日に国会前のデモに参加しました。このときの様子を語れと頼まれましてここに来ておりますが、デモの感想は、有志の会のHPにのせてあります。ちなみにそれをもう一回考え直してコメントを付けたものが、私のブログに書いてありますので、興味のある方はどうぞ。
 デモに参加した理由ですが……、安保法案があれというのもありますが、ご存じのように最近人文系学者たちへの政府からのいじめがひどかった。お取りつぶすぞとか脅迫されてまして。ただ、人文系は、言語の不誠実な使用に関しては条件反射的に激怒、軽蔑して、しまいになんだか嬉しくなる生き物である。首相の周辺は頭が悪いぞということで却って嬉しくなっちゃった。憲法学者を呼んでみたら、自民党の言うとおりに発言してくれなかった、安倍首相の使う比喩があまりにもめちゃくちゃだった。テレビで使った火事の模型が、生肉にしか見えなかった。これは笑い話だ。ついウキウキしてデモに行ってしまった、というわけです。
 デモに参加して思ったこと。デモに行くべきか否かと言ったら、行ってもいいんじゃねえかということです。飲み屋にもネットにも学校にも職場にも真の自由はなくなっている。むしろ街頭に自由があるんじゃないかと思いました。今回、多くの方がデモに参加していた。これが、「多く」の人であったことが非常に私にはよかった。要するに、少人数ではなくなるべく沢山の人数が集まるデモに行ってがやがや騒いだ方がいい。デモ中に議論を求めるのは無理で、党派もいろいろある。しかし、みんなで騒げば仲間が居ると錯覚できるし、発散になってとてもいい気分だ。どさくさに紛れて日々の不満を叫べば良い。というのも、20年以上前、大学生の時、日米地位協定に関して少しやったことがある。でも、同志がデートだったかバイトだとかいって裏切って三人しかこなかった、その時の恨みはひどいですよ。
 恨みというのを馬鹿にすべきではない。私、いまでも恨んでますから。小林先生のように晴れやかに論理的に自らを支えられれば良いが、誰でも出来るわけではない。それに怨恨がどう展開してどこに転がってゆくか分からない。お爺さんの怨みを勝手に背負っている安倍首相が危ないのと同じです。我々のようなまともな人間はそこを回避すべきだ。あまりに強い怨恨で政治活動するのは危険だと思う。怨念は極端な改革派となる。いま世の中を牛耳っているのはそういう人たちです。落ち着いて晴れやかに思考できる世の中を取り戻す必要がある。
 しかし、そうはいっても気になることがある。
 危険な政治家に物語あり。まともな政治家に物語なし。という現象です。
 橋下氏や、安倍首相にあり、「永遠の0」みたいな物語の根底にあるのは、いままで抑圧されてきていまもいじめられているけれどもがんばっている、というヒーロー像である。これに引き寄せられている案外と若者は多いのです。鬱屈した人間が再生する物語をちんぴら政治家に奪われている。これに対抗する物語が必要だ。いま沖縄だけがそれを自覚して持っているように思います。
 私の専門の話をしますと、日本の近代文学は、薩長土肥にいじめられた佐幕派の人脈が作った。坪内逍遙、北村透谷、夏目漱石。ひいてはのちの労働者文学、「二十四の瞳」の壺井栄にいたるまでの日本の文学は児童文学を含めてそういう負け組のがんばりの圧倒的な影響下にあった。いまやそれが非常に弱まっている。虐げられた者達が素晴らしい物語を作るという、ほとんど「聖書」のようなある種の宗教性の欠落は民主主義にとって実は決定的ではないかと思います。これの再生が必要である。この点に関しては長い戦いが必要です。皆さん、我々が立憲主義や平和主義のことを勉強して分かっているからといって勝ち組ではない。現実問題、我々は負けて、差別されいじめられているではありませんか?国会前で声を張り上げていた人々は実のところ、新聞に載っている写真のイメージよりもかなり少ない印象を受けました。みんなで勇気を持って議論しながら、粘り強く仲間を増やす努力が必要だと思います。以上です。


……で、続く以下の文章は、4月に中野晃一氏が講演+シンポジウムで来た時に、「質問」として提出したものである。シンポジウムでは、与党の行動の不正義が整合的に説明されていたように思うが、私のような文学に携わるものとしては、正義不正義以前に人間の精神的な生態がどうなってるのか考えざるをえないのである。坂口安吾のように「政治では人間は絶対に変わらない」とは全く思わないが。その点、リベラル勢力は間違いを繰り返そうとしているような気がしたのである。

野党側の共闘に関して、共産党の譲歩に対して民進党がどれだけ応えるかという構図で語られることがあります。これは分かる部分がありますが、一方で、今後の共産党がどのようなありかたをするべきとお考えでしょうか。
共産党が、前衛党としての教条主義的な側面や組織としての非民主性?を持っていたことは文学研究者としてもある程度分かる部分ではあるのですが、共産党のテコでも動かない綱領は左派の魅力を一部支えていたところがあると思います。これまでも、共産党は、見かけほど非現実的な党ではなかったと思うので共産党が現実主義的な路線を取り始めることに危惧も感じるのですが、いかがでしょうか。
所謂「ネコウヨ」の皆さんの発言などをみてみると、左派に、理念と処世の矛盾というか、インテリの巧妙な処世術のようなものを見出しているところがあります。だから、「馬鹿正直」にみえる安倍氏に引き寄せられているのではないか。したがって、共産党もその馬鹿正直なところをなくすと求心力もなくす可能性があるとも考えられるのですが……


わたくし自身は、正直言って、政治に関しては何をどうしたらいいのか全く分からんというのが実感である。シールズや三宅なんとか氏のように行動するのは性に合わないだけでなくある種の回り道ではないかとさえ思う質である。また私も上のように「物語」の再生を言ったこともあるが、これは本気ではなかった。そんなことで何とかなるほど人間社会は甘くはあるまい。そもそも大切なのは「物語」よりも「小説」であり、「批評」である、がそれが広く流通する地盤はかなりなくなってしまった。ただ、わたくしはある種の弁証法を信じている。揺れながら歴史は進んでゆくのだと思うのである。そこに「物語」のような止揚はない。