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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

紫と青

2016-08-02 19:08:08 | 思想
一夜明けて「シン・ゴジラ」をふり返ってみると、やっぱり基本的にオタク趣味の映画だとはいうものの、制作者がそれに徹しきれずに、鉄道技術や政治の描写に意識を吸い取られている――というより依存しているのは悲劇的である、と思った。最後の最後の場面で救われているとは言え、役人や政治家が彼らなりにまじめに仕事をやっている結果――結局何をしてしまっているのかは、今回のゴジラでは正確には描かれておらず、むしろ隠蔽されている。庵野監督はアニロニーを武器とする人だが、アニロニーはアイロニーであって説明できることとは違うのである。まさに今どきという感じがするが、戦後の特撮やアニメーションの発達が日本の敗戦への複雑感情に原因がある以上、当たり前であり、――第一作のゴジラから既にそうであったように、肝心の問題が提示されつつ慰撫され隠蔽されてしまうことが起こってきた。(前期の授業では、例えば「マジンガーZ」でそれがどんな風だったか少し分析しといたわ。)今回のゴジラでは sin の提示は示唆されるのではなく具体的な追及が必要なのだが、それはやはりゴジラという象徴物体が邪魔である。あるいは、思いの外、反米映画なのかもしれんけど……、そうすると誰かも言っていたが、戦前の「ハワイ・マレー沖海戦」に近いのかも知れない。それが第一作「ゴジラ」へ至るためには、また「日本」の技術――日本軍(自衛隊)の徹底的な敗北を体験しなければならないのであろうか。

しかし、かような事情は、作り手の問題でもあるが、映画について語る側の意識の問題でもある。



ところで昨日、深夜「シン・ゴジラ」を見終わってから、家に帰って外山恒一の『青いムーブメント』を読んだ。よく言われていることであろうが、庵野秀明やオタキングのあとの革新運動の行く末を考える上で、外山恒一は外せない人物である。外山はわたくしより一歳年上である。この本を読んで、なるほどと思ったが、かれの思春期の偶像はさだまさしと中島みゆき、尾崎豊にブルーハーツなのである。ちょっと古いかんじもあるが、彼らに熱中していた連中がいたことは憶えている。東浩紀みたいにSFとおにゃんこクラブがすきな連中もいたが……。わたくしの思春期はといえば、さだまさしやブルーハーツ、おにゃんこ、全て殲滅すべき対象であったが、外山や東の感覚はなんとなく分かるし、現在の彼らが政治についてしゃべっているのを見ると、なんか発想のリズムに同質なものを感じていやになる。

庵野やオタキングの趣味はどことなくモノラル録音や四畳半の部室風景と繋がっている。外山も東もそれに比べると明るく暴力的であり、たぶんゴジラなんかを美しく紫で彩ったりはしないものである(シン・ゴジラ)。その暴力的な側面はもっと物事を関係づける超越的で抽象的なものの展開への興味にそそがれ、それゆえ、わたくしの世代に、ポスコロ論文を書く輩が多かったのも、単に学会の流行の問題ではない。彼らはあまり認めたくないだろうが、彼らの超越と正義への欲望みたいなもんが、その下の、SNSとグループワークによる脅迫的な「俺たち」言説錬成の世代の下地をつくったのである。(ほんとかいな……)フランスのポリティーク派の一部を持ち出すまでもなく、最初は、宗教的対立物の関係性の調達であったはずの国家主権概念――を提唱する人間が、魔女狩り大好きになったりすることはある種の必然である。魔女狩りは主権概念とともに現れるので、それを容易に分離できると考えるのは危険である。やっかいなのは、そんな厄介さを乗り越えられると一見思われる、超越ならぬ「越境」的な態度は、不義理というか小さい暴力をそれとなく積み重ねなければならず、別な意味で巨大な怒りを買うという問題である。彼らは属する共同体の中の弱い者を叩いて「越境」するものだから――。故にか、結局の所、ゴジラ映画は滅びず、ディズニーも小さな共同体の話から逃れられない。

外山の〈ファシスト〉への転向(でもないのだが)と、「シン・ゴジラ」のミソジニーというかマザコンというか……についても考えたのであるが、面倒くさくなったから、論文にでも活かすことにしよう。前期の授業では、さんざサブカルのミソジニー問題についてはしゃべったのであるが……とりあえず、「シン・ゴジラ」には美少女さえも出てきておらず、我々おじさんたちの世の中を諦めたかんじがよく現れていた。あと、政治的にバランスをとったあげくの中立的思想的貧弱がよく現れているサンプルになりそうだと思った。