題名以下壮大なネタバレですのでお気をつけください。

忙しい時なのであるが、早く行っとかないと仕事も能率が上がらないなどと言い訳をしつつ「シン・ゴジラ」を観に行った。
ゴジラは、もともと反核反米愛国失恋映画であるが、ゴジラが出てくる時点で、八岐大蛇やタタリ神の類をあつかってしまっている。怪獣は象徴であって象徴にあらず。だから大して時代が変わっていないのに、(確か次の年の)第二作目以降、怪獣プロレス譚として、お盆や大晦日にでてくるご先祖様みたいなものになってしまったわけである。そうなったら最後、資本主義や公害問題や靖国問題や日米関係の比喩……を幾ら重ねても緊迫感は戻らなかった。
しかし――、お盆の行事をアメリカに模倣され――、茄子に箸を刺して川に流すような風情を、本物の牛を刺し殺すような映画に造り替えられ(しかも二回)、地震だけでなく自業自得な原発によって祖国が蹂躙され、フラストレーションが溜まっていたところに、戦後レジュームのファルスみたいな首相とか沖縄迫害を目撃させられ、やっぱり「オレたち」は糞野郎だったと思い知らされている矢先に――、「オレたち」だけでなく「オレ」もダメということを主張する天才オタクが、人気アニメを作り続けざるを得ない作業で鬱になっている最中に「ゴジラ」で自由に遊んでいいよ、といわれたので、――つくったのが、今回の映画である。
日本は、核攻撃による敗戦のショックを、現実にはゴジラで認識した。また3・11以降の堕落を、シン・ゴジラで認識するのである。というか、3・11以降今に至るまで、武器の使用を許可する「戦犯」首相が死刑になったり東京が焼け野原にならなかったので、「オレたち」は不満だったのだ。というわけで、代わりにゴジラがやってくれました。わたくしは火の海と化した東京のシーンでちょっと涙が出た。たぶん、そういう人は多い。
問題は、このあとであった。第一作ゴジラは、被爆者(かれのつくった酸素破壊爆弾は、まさに被爆者の実感であり……)の天才博士の失恋と自殺というゴジラそのものより陰惨きわまる話がくっついていたため、「オレたち」はその憐れな個人のために、「オレたち」で日本の社会をどうにかしなきゃという気になったわけだ。しかし、今回はどうであろう。
解決に向かうのは、失恋で命を捨ててしまう天才ではなく、未来ある若手政治家と「オタク天才集団」の協働である。
ここで、わたくしは、やはりいつもの庵野監督だったと――彼が「オレたち」を現実に引き戻そうとしているのであろう、と不安になってきた。もはや、ゴジラやエヴァンゲリオンの比喩は、明確な比喩として機能しない。現実に描けるのは、「ゴジラで遊んでいるオタク(オレ)たち」の存在のみである。世界が日本に核を落としても平気なのは、はじめからわかりきったことだし、野獣なみの天才がごろごろいる政治家や官僚たちがどうしようもない関係性の中で苦しんでいるのも知っている、――彼らは元々優秀なのかもしれないがそれだけのことだ。
で、オタク集団による、「ゴジラを冷やせばいいじゃん」作戦が始まるわけだが、――しかも、今回のゴジラは原子力発電所の比喩だから、消防車なのは分かるよ……分かるけれどもね……。まあ昔(「ゴジラの逆襲」)から凍らしてゴジラを何とかしようというのは伝統芸だからあまり驚くべきではない。むしろ、オタク的=伝統藝とみなすべし。
映画は、昔からゴジラにいいように踏みにじられてきた電車の逆襲から表面上は急展開をみせる。
無人新幹線がゴジラに向かって特攻。続いて、「無人在来線爆弾」炸裂!鉄ちゃんたちの悲鳴笑いが止まらない
(注:BGMは「宇宙大戦争のマーチ」だった)
わたくしの気分の高揚は、トニーたけざきの漫画にある「都庁ロボ」の公務員爆弾を期待させたくらいだ。
ビルの下敷きになったゴジラの口に、消防車でみんなで冷たいジュースを注ぐ……これだけ呑ませたら、もうお腹がゆるくなっちゃう……。ゴジラの身体にちゃんと感情移入までさせるうまい展開であり、ゴジラは立ち往生してハッピーエンド。この身体に対する感覚が、最終シーン――ゴジラの尻尾が人間の身体で出来てたというオチに繋がって行く。
一瞬気の抜けたわたくしが音楽に釣られてほろりときそうになったところで、内閣官房補佐官かなんかが「日本はスクラップアンドビルドでいつもやってきた」とか言っていたので、目が覚めた。まずその糞じみた発想をやめていただきたい。スクラップにしたい奴がしてるだけではないか。これは第一作ゴジラとは違った意味でハッピーエンドではないのだが、わたくしは、結局、内閣官房補佐官がクソであることを半分隠蔽しているという意味で、この映画は熟してしまった比喩をもちいた怪獣映画の限界を示すものであると思う。
結局、問題を比喩で語るなよということにつきる。

忙しい時なのであるが、早く行っとかないと仕事も能率が上がらないなどと言い訳をしつつ「シン・ゴジラ」を観に行った。
ゴジラは、もともと反核反米愛国失恋映画であるが、ゴジラが出てくる時点で、八岐大蛇やタタリ神の類をあつかってしまっている。怪獣は象徴であって象徴にあらず。だから大して時代が変わっていないのに、(確か次の年の)第二作目以降、怪獣プロレス譚として、お盆や大晦日にでてくるご先祖様みたいなものになってしまったわけである。そうなったら最後、資本主義や公害問題や靖国問題や日米関係の比喩……を幾ら重ねても緊迫感は戻らなかった。
しかし――、お盆の行事をアメリカに模倣され――、茄子に箸を刺して川に流すような風情を、本物の牛を刺し殺すような映画に造り替えられ(しかも二回)、地震だけでなく自業自得な原発によって祖国が蹂躙され、フラストレーションが溜まっていたところに、戦後レジュームのファルスみたいな首相とか沖縄迫害を目撃させられ、やっぱり「オレたち」は糞野郎だったと思い知らされている矢先に――、「オレたち」だけでなく「オレ」もダメということを主張する天才オタクが、人気アニメを作り続けざるを得ない作業で鬱になっている最中に「ゴジラ」で自由に遊んでいいよ、といわれたので、――つくったのが、今回の映画である。
日本は、核攻撃による敗戦のショックを、現実にはゴジラで認識した。また3・11以降の堕落を、シン・ゴジラで認識するのである。というか、3・11以降今に至るまで、
問題は、このあとであった。第一作ゴジラは、被爆者(かれのつくった酸素破壊爆弾は、まさに被爆者の実感であり……)の天才博士の失恋と自殺というゴジラそのものより陰惨きわまる話がくっついていたため、「オレたち」はその憐れな個人のために、「オレたち」で日本の社会をどうにかしなきゃという気になったわけだ。しかし、今回はどうであろう。
解決に向かうのは、失恋で命を捨ててしまう天才ではなく、未来ある若手政治家と「オタク天才集団」の協働である。
ここで、わたくしは、やはりいつもの庵野監督だったと――彼が「オレたち」を現実に引き戻そうとしているのであろう、と不安になってきた。もはや、ゴジラやエヴァンゲリオンの比喩は、明確な比喩として機能しない。現実に描けるのは、「ゴジラで遊んでいるオタク(オレ)たち」の存在のみである。世界が日本に核を落としても平気なのは、はじめからわかりきったことだし、野獣なみの天才がごろごろいる政治家や官僚たちがどうしようもない関係性の中で苦しんでいるのも知っている、――彼らは元々優秀なのかもしれないがそれだけのことだ。
で、オタク集団による、「ゴジラを冷やせばいいじゃん」作戦が始まるわけだが、――しかも、今回のゴジラは原子力発電所の比喩だから、消防車なのは分かるよ……分かるけれどもね……。まあ昔(「ゴジラの逆襲」)から凍らしてゴジラを何とかしようというのは伝統芸だからあまり驚くべきではない。むしろ、オタク的=伝統藝とみなすべし。
映画は、昔からゴジラにいいように踏みにじられてきた電車の逆襲から表面上は急展開をみせる。
無人新幹線がゴジラに向かって特攻。続いて、「無人在来線爆弾」炸裂!鉄ちゃんたちの
(注:BGMは「宇宙大戦争のマーチ」だった)
わたくしの気分の高揚は、トニーたけざきの漫画にある「都庁ロボ」の公務員爆弾を期待させたくらいだ。
ビルの下敷きになったゴジラの口に、消防車でみんなで冷たいジュースを注ぐ……これだけ呑ませたら、もうお腹がゆるくなっちゃう……。ゴジラの身体にちゃんと感情移入までさせるうまい展開であり、ゴジラは立ち往生してハッピーエンド。この身体に対する感覚が、最終シーン――ゴジラの尻尾が人間の身体で出来てたというオチに繋がって行く。
一瞬気の抜けたわたくしが音楽に釣られてほろりときそうになったところで、内閣官房補佐官かなんかが「日本はスクラップアンドビルドでいつもやってきた」とか言っていたので、目が覚めた。まずその糞じみた発想をやめていただきたい。スクラップにしたい奴がしてるだけではないか。これは第一作ゴジラとは違った意味でハッピーエンドではないのだが、わたくしは、結局、内閣官房補佐官がクソであることを半分隠蔽しているという意味で、この映画は熟してしまった比喩をもちいた怪獣映画の限界を示すものであると思う。
結局、問題を比喩で語るなよということにつきる。