
安冨歩氏の著作は『「満洲」の成立──森林の消尽と近代空間の形成』から入ったが、そのときには非常に要領のよい実証的な共同体論だなあぐらいに考えていたのである。しかし『ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛』を読んで驚いた。なんというか、おそらくは安冨氏の人生の深い業に裏打ちされたところの、勇気ある論理に驚いた。この本を読んだ人は、読者自分の姿がかくも克明に記されているのに驚くであろう。……「驚く」を三度も使ってしまったが、これこそが学問であると思わせる力が横溢しているのである。「連携」による研究とか「実践的」とか称する研究が、真に実践的であった試しがなさそうなのと対照的である。氏のいうハラスメントは、コミュニケーションに不可避的な可能性として孕まれているものである。AとBのコミュニケーションにおいて一方(例えばB)が相手に対する学習過程を作動させない場合に必ず起こり、それはBからAの攻撃となる。Aはそれによって自分の方が悪いのではないかと思い、Bの呪縛下に置かれるようになる。このモデルによって安冨氏が討とうとしているのは、関係から離脱することが罪悪感を伴う──夫婦と特に親子関係である。このあとの論理展開を読んで、──親が愛情の代わりに子供に勝手な都合や理想を押しつける場合、すなわち「親が子供を愛せないことに罪悪感を覚え、自分が子供を愛していると思いこもうとする場合」を重要視しすぎである──つまり、氏自身の体験に裏打ちされすぎていて、愛情をうけて自らの感情の衰退が少ない人間を理想化しすぎていると批判する人もいるかもしれない。ただ、安冨氏の言いたいのは、夫婦や親子というのは全てハラスメントを孕んだ関係であって、そこを認識するところから始めないと始まらないのだということであろう。そもそも、ここに安冨氏に非常な勇気を見るべきだと思う。夫婦や親子は、どうみても、ハラスメントが最も横行していながら、それをハラスメントであると認めるのがタブーと化しているからである。最近は、親子の愛情や絆とかを無条件に振りかざす連中が、安冨氏の図式で言えばABどちらかがハラスメントをしている状態に無頓着に──というより完全にハラスメントが目的だと思うけれども──合意形成しようだの話し合いしようだのと、自らの怨恨をまき散らしているからである。最近出された『生きる技法』で安冨氏は「誰とでも仲良くしてはならない」、さらに「嫌だと感じる人と友達のフリをしてはいけない」と言っているが、――勇気を持って親や妻と縁を切った氏だから言える、と感心している場合ではない。誰でもそんな勇気を持てばなんてことはないことが、最近の世の中多いにちがいないのだ。しかし、これは上のような怨恨による合意形成好きのハラッサーに対する「必死の抵抗」である。簡単でしかも勇気が必要なことである。
……そんなことを思わせる氏の著作であるが、私がそれ以上に注目しているのは、氏が本当に徹底抗戦をしようとする人だということである。上のようなハラスメント分析なら、これからも氏の口まねが出来ないことはない。しかし以下のような徹底的なところは氏独自のものではなかろうか。その独自性から氏の本来の姿を垣間見るべきかも知れない。『経済学の船出 創発の海へ』で、「家族の内部」では「「愛」という互酬性が働いている」という柄谷行人の言葉をつかまえて認識の不徹底さを批判したり(これに続く柄谷批判は実に興味深い論点をふくんだ批判なのであるが……)、『原発危機と「東大話法」』で、根本的にはあんまり悪意がなさそうな感じに映るので免責されそうな香山リカ氏を批判したり、最近では、よいおじさんぽいのでこれまた免責されそうな小田嶋隆氏を批判したりする徹底さである。一昔前なら、「そこんとこは共同戦線のためにちょっとは遠慮せい」と共産党に怒られそうである。