★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

日本に幽霊が出る――宮澤賢治という幽霊である

2012-04-21 05:45:58 | 文学


最近、宮澤賢治についてちょっくら考えているので読んでみた。宮澤賢治は小学校の時に「どんぐりと山猫」のオペレッタをやって以来、私にのしかかる何物かである。大学の時には、ちょうどブームの時で、国文科の卒業論文の何割かが宮澤賢治である現象をみるにつけ、この作者の感染力に恐怖を抱いたものである。私の卒論なぞ、マルクス主義の評論についての論文だというだけでけちが付いているのに、国柱会(文学)はいいのかよ、と思った。大学院に行ったら、宮澤賢治をやろうとしている人(←東北出身)がいて、ちょうどそのころ、吉田司の『宮澤賢治殺人事件』や『批評空間』での特集があったりして、苦悩しておられた。気の毒であった。宮澤賢治は、例えば夏目漱石や萩原朔太郎よりも遙かに難物だと私は思う。すなわち、宗教やマルクスが文学にとって必要であろうか?というアポリアを説明する勇気と胆力がなければ、扱えない。私は、大学院の頃から、この問いは、テキスト論でも文化研究や脱植民地主義的な批評でも必ずしも解けないと思っていたし、いまもちょっと考え方は変わったが、そう思っている。換言すれば、戦争犯罪は裁判で裁かれることもあろうが、日蓮を裁くことが出来るか、ということである。私は裁く必要があると思う。オウム真理教の件でも同じことが言える。私が妄想するところによれば、信者達の真の目的は、非信者達に禍根を残すことにある。実際、もう残っている。我々がオウム真理教の事件を厭だなあと思うのは、彼らのような人々は時代が変わってもまったくそれとは関係なく現れること自体が示されたことを知っているからである。宮澤賢治も復活する。上の宮下氏の本は、研究上どのような位置づけになるのか知らないが、たぶん研究としてはそれほどの水準でもなく、先行研究を抜いているわけでもない。しかし問題はそこじゃない。宮下氏が宮澤賢治によって明らかに精神的に蘇生し、紋切り型のせりふをものともせずに書き続ける勇気を得ていることである。「研究」に意味があるとすれば、そんな勇気を一度たたきつぶすことにあると私は思う。

私は、「気のいい火山弾」とか「虔十公園林」にみられる、最後に救われるようなデクノボー的人物を迫害していた連中に対する激しいルサンチマンはただものではなかったと思う。私がハルマゲドン的な発想をしているからとは思えない。

土地を歩き回ったり、旅行に行ってみたり、孝行をしてみたり、趣味を仕事にしてみたところで、問題はいっこうに解決しない。研究がそんなものの代替物であったりしてはならないと私はあらためて思った。その「代替」の危険性は、宮澤賢治の文学にあり得るだけでなく、宮下氏の著作にも含まれるものである。