★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

中国でまた毛のふさふさ生えたティラノサウルス発見

2012-04-05 22:25:51 | 日記
もういいよ、鳳凰は恐竜の子孫ということで。中国万歳!

子供の頃の図鑑には、トリケラトプスはサイの祖先と書いてあったけど、もはや最近の恐竜研究の進捗は物凄くてついていけん。ティラノサウルスは鳥の祖先、と言っていたと思ったら、今度はティラノサウルスの方が鳥から進化した説登場。というわけで、わたくしもティラノサウルスに進化する可能性がある。


勇気あるハラスメント分析2

2012-04-05 05:13:06 | 思想
「1」で結局何が言いたかったかといえば、安冨氏の学問は常に自らを分析の対象にしているために、氏の導く論理が氏という人間への興味へと導かれる事態を重く見るべきということである。このような性格は本当は特に人文系の学問に必須のものであるべきだと思う。これをやると殆どの学者はものを書けなくなるのでやらないだけである。氏は『生きる技法』で「人は多くの人に支えられて初めて自立できる」「そのために不可欠なものは、信頼できる友人たちの存在である」といったことに「誰とでも仲良くしてはならない」や「嫌だと感じる人と友達のフリをしてはいけない」を加える。これについて、田島正樹氏が「「嫌だと感じる」自分の感性に、心の狭さとか、偏見とか、仲間意識などが忍び込まない保証はない」、「我々は、単に違うというだけで嫌悪してしまうような愚を、是非とも避けなければならない。それゆえ、「『仲間』と『友人』を混同してはならない」というテーゼを付け加えたい。」と述べている。さらには、「大きな事業を興す」ために、「友人ではない仲間たちと、契約とか共通利益などの部分的信頼」が必要だ(http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/52233930.html)とも述べる。安冨氏はたぶん田島氏の言う「仲間」の成立のためにこそ、「「嫌だと感じる」自分の感性」の必要を説くであろう。実際、安冨氏の著作にただようなにか実存的な(人によっては宗教的とも感じられる)何かは、別に氏がいままで成し遂げてきた様々な共同研究を妨げなかった訳であって、じゅうぶん氏は田島氏のいう「仲間」を造ってきた訳であるから。しかし、この二人の言い方の違いには、案外大きな哲学の違いがあるような気がする。少なくとも、田島氏の言う「大きな事業」の具体性に関わっているであろう。

安冨氏の『ハラスメントは連鎖する』の読者は、ハラスメントの連鎖過程の分析から氏の提唱するガンジーの非暴力的徹底的抵抗の箇所まで読み進めて、「確かにその通りであり私たちの現実はそうである。ガンジーのようにやるしかないことも分かった。しかし私にはそのような強さはない……」と更に絶望が深まるかもしれない。あるいは、そこまでゆかなくとも、自分がこれまで強烈なハラスメントを受けてきたことを「初めて」認識する人も多いのではないか。それがこの本の狙いだとしても、認識できたことによる解放を感じるかどうかは人による。ショックによる絶望が先に立つ人も多いかも知れない。それによって、氏の言うハラッシーの属性を更に強化してしまう人もいるかもしれない。たぶん田島氏は、「大きな事業」から生じるイメージによって「こまけえ過去の遺恨はどうでもいいことになるかもよ~」という感情が生成されることに期待をかけているところがあるのではなかろうか。あるいは私は、優れた文芸作品も読者にそんな感情を生み出すことによって意味を持っているのかも知れないとも思う。



例えば、今日少し読んだこの本は、狭い田舎町でハラスメントの連鎖がぎりぎり酷い事態に至らないような都合のよい物語なのであるが、それはそれで「まあこれからも生きられるかな」と読者に思わせるかも知れない。まあ安冨氏の論理だと、これは逃げなんだけれども。安冨氏の著作は怒りの告発書であって、この漫画にでてくるようなまともな(←これもフィクションですけどね 笑)人達じゃなく、常軌を逸したハラッサーが大手を振って歩いているような社会になってしまったことの証明である。中にはハラスメントについて一生懸命それっぽく語りながら、恐ろしいハラッサーになっている御仁もいるからやっかいである。人間すべてハラッサー、ハラッシーになりうる、しかも後者もハラッサーになって前者より苦悩、錯乱がひどいとすれば、最初にハラスメントしたもんが相対的に勝ちだと考えるやつが学者には必ずいる。マルクス主義からの転向者が、優秀な官僚になったりするのと同じかも知れない。意地悪の仕方を研究していたら意地悪をしてみたくなってしまうのである。