石井信平の 『オラが春』

古都鎌倉でコトにつけて記す酒・女・ブンガクのあれこれ。
「28歳、年の差結婚」が生み出す悲喜劇を軽いノリで語る。

あれから2年が経ちました

2011-07-16 14:42:47 | 妻より
ご無沙汰しております、妻の石井敦子です。

夫が亡くなった、2009年の7月16日14:20から2年が経ちました。

私も未亡人と呼ばれるのに慣れてきましたが、それでも「夫が近くに居ない」という実感は耐えがたく、現実逃避に年の半分は海外への逃亡生活をしておりました。

今年に入ってからも、昨年末から年初は東南アジア方面に2カ月の滞在、4月はメキシコシティへ1カ月、そして6月は丸々オーストラリアの妹夫婦宅におりました。

さすがに、身体が旅疲れてしまったのか、とうとう悲鳴を上げ、6月からずっと体調を崩して、帰国してから高熱が続いて、気管支炎になってしまいました。

とうとうお迎えが来たかなと、一瞬期待をしてしまいましたが、今の時点でどうやら死んでしまうようなことはないようで、まだしばらく今生でお世話になる日々が続きそうです。

旅が好きだった信平さんが、病床で私にささやいたのは、「敦子ちゃん、ここを出たら旅に出ようね」と夢うつつに言った言葉でした。

私の身体の全細胞がその言葉を覚えていて、それに突き動かされて旅を続けているのかもしれません。世界のあちこちに身を置き、夫のしたかったことを考えます。

そして、生きていたらどう感じていただろうかということ。

今年の2011年3月11日以降、日本人がそれまでおろそかにしていたこと、棚上げにしていたことが急に目の前にぶら下がるような事態が続いています。

誰もが危ないと思っていた原発の事故。政府(もちろん民主党だけではない歴代日本政府のことです)の原発推進の政策や東電を筆頭にした電気会社の無責任経営だけを責められないと思うのは私だけではないのでしょうか。ここに国民を巻き込む議論が圧倒的に足りなかったことが問題だったのではないかと重く受け止めます。

国民が「誰かがなんとかしてくれる」と待ちの姿勢でいたこと、積極的に自分たちの生活の根本的な問題に目をやらなかったこともこの問題の責任の一端を担っていないでしょうか。

こんな事態を目の当たりにすると、夫なら何と言うだろうと想像します。夫は原発反対でした。だからこそ、こんな現状を知ったら、さぞかし心を痛めるだろうと想像します。

今こそ国民が立ち上がり、物言わぬ国民から「物言う国民」に進化を遂げるチャンスです。

私もこれからも脱原発活動に積極的に参加していく予定です。

生き残された人間の使命だと思っています。


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2 Comments

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Unknown (Unknown)
2011-07-16 18:05:33
もう2年たったのですね。3.11後に私たちの目の前に突きつけられた事実を信平さんだったらどう表現し伝えようとしたのでしょうか。今の時代だからこそ、こんな時だからこそ、信平さんの声を聞いてみたい気がします。
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預言者 (meme76)
2011-07-22 10:28:59
信平氏の言葉は古びないのが不思議です。「古典」になっているのでしょうか。それとも真理を素直に見つめているからでしょうか。考えはすごく常識人と思います。
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