毎年8月6日の夜に、平和記念公園の供養塔前で行なわれている、広島市
キリスト教会連盟主催「キリスト者平和の集い」に、今年も参加して来ました。
この集いに間に合うように実家から戻って来て、「一緒に行く」と言った娘を
連れての参加となりました。
ちょうどこの集いの開始直前に、「灯篭流し」が始まるため、原爆ドームの北
の相生橋から平和大橋にかけての元安川沿いは大混雑となります。娘の
手を引いて歩くのに苦労しました。
今年は、米国在住のTさんという方の被爆証言を聞くことになっていました。
ゲストとして、米国からピース・クワイヤが同行していて、ヒロシマや平和を
テーマにした歌を歌ってくれました。
ところがTさんは、「せっかく来て下さったクワイヤの方々を紹介したい」と、
メンバー一人一人について、どんな人か、どういう思いでクワイヤに加わった
か、などを延々と語り始めました。
Tさんが、喋りだすと止まらない人で収拾が付かなかっただけなのか、初め
からご自身の体験は語らないつもりだったのか分かりませんが、結局持ち
時間をすべて費やし、更に時間オーバーして、結局歌と紹介だけで集会が
終わってしまいました。
「出会いを喜ぶ、大事にする」のはとても大切なことです。お互いをよく知る
ことも。しかし講師として招かれた人が、頼まれた話をしないのはいかがな
ものかと思います。集まった人たちは、Tさんの被爆証言を聞きに集まった
のです。事前にアナウンスは無かったので、おそらく関係者もTさんの意図
を知らなかったのでしょう。「私のことを話すより・・・」という思いをもしTさん
が持っておられたとすれば、最初から断わるべきだったのではないかと
思います。
もちろんTさんは善意でそうされたと思います。でも善意の「勘違い」が全て
を台無しにすることは往々にしてあります。(私も経験ありますが・・・)
厳しいことを言えば、平和の歌なら平和を求める人たちのいる所ではいつ
でも聞けるし、歌う人がいなくても自分で歌うことだってできます。けれども
被爆証言は、生きている被爆者の口からしか聞けないのです。
抽象的な概念としての平和や、個々人の生活レベルでの平和に留まらず、
被爆者から非被爆者へ、次の世代へと語り継がれる平和を、この集会の
参加者は希求しています。そうした関係者の意図も、Tさんには伝わって
いなかったのでしょうか。当初は60周年の昨年招くはずだったのを、準備
期間が必要だからと1年延ばした割に、肝心な部分が詰めれていなかった
のは本当に残念でした。
もちろん、いずれは生きた被爆者が一人もいなくなることを見越して、新た
な平和運動を模索することも必要ですけど、今すべきことは何か、個々人
が勝手に考えるのではなく、皆で追求することが求められているのでは
ないでしょうか。
キリスト教会連盟主催「キリスト者平和の集い」に、今年も参加して来ました。
この集いに間に合うように実家から戻って来て、「一緒に行く」と言った娘を
連れての参加となりました。
ちょうどこの集いの開始直前に、「灯篭流し」が始まるため、原爆ドームの北
の相生橋から平和大橋にかけての元安川沿いは大混雑となります。娘の
手を引いて歩くのに苦労しました。
今年は、米国在住のTさんという方の被爆証言を聞くことになっていました。
ゲストとして、米国からピース・クワイヤが同行していて、ヒロシマや平和を
テーマにした歌を歌ってくれました。
ところがTさんは、「せっかく来て下さったクワイヤの方々を紹介したい」と、
メンバー一人一人について、どんな人か、どういう思いでクワイヤに加わった
か、などを延々と語り始めました。
Tさんが、喋りだすと止まらない人で収拾が付かなかっただけなのか、初め
からご自身の体験は語らないつもりだったのか分かりませんが、結局持ち
時間をすべて費やし、更に時間オーバーして、結局歌と紹介だけで集会が
終わってしまいました。
「出会いを喜ぶ、大事にする」のはとても大切なことです。お互いをよく知る
ことも。しかし講師として招かれた人が、頼まれた話をしないのはいかがな
ものかと思います。集まった人たちは、Tさんの被爆証言を聞きに集まった
のです。事前にアナウンスは無かったので、おそらく関係者もTさんの意図
を知らなかったのでしょう。「私のことを話すより・・・」という思いをもしTさん
が持っておられたとすれば、最初から断わるべきだったのではないかと
思います。
もちろんTさんは善意でそうされたと思います。でも善意の「勘違い」が全て
を台無しにすることは往々にしてあります。(私も経験ありますが・・・)
厳しいことを言えば、平和の歌なら平和を求める人たちのいる所ではいつ
でも聞けるし、歌う人がいなくても自分で歌うことだってできます。けれども
被爆証言は、生きている被爆者の口からしか聞けないのです。
抽象的な概念としての平和や、個々人の生活レベルでの平和に留まらず、
被爆者から非被爆者へ、次の世代へと語り継がれる平和を、この集会の
参加者は希求しています。そうした関係者の意図も、Tさんには伝わって
いなかったのでしょうか。当初は60周年の昨年招くはずだったのを、準備
期間が必要だからと1年延ばした割に、肝心な部分が詰めれていなかった
のは本当に残念でした。
もちろん、いずれは生きた被爆者が一人もいなくなることを見越して、新た
な平和運動を模索することも必要ですけど、今すべきことは何か、個々人
が勝手に考えるのではなく、皆で追求することが求められているのでは
ないでしょうか。