Naked Heart

その時々の関心事をざっくばらんに語ります

勘違い

2006年08月06日 23時35分44秒 | ヒロシマ
毎年8月6日の夜に、平和記念公園の供養塔前で行なわれている、広島市
キリスト教会連盟主催「キリスト者平和の集い」に、今年も参加して来ました。
この集いに間に合うように実家から戻って来て、「一緒に行く」と言った娘を
連れての参加となりました。
ちょうどこの集いの開始直前に、「灯篭流し」が始まるため、原爆ドームの北
の相生橋から平和大橋にかけての元安川沿いは大混雑となります。娘の
手を引いて歩くのに苦労しました。

今年は、米国在住のTさんという方の被爆証言を聞くことになっていました。
ゲストとして、米国からピース・クワイヤが同行していて、ヒロシマや平和を
テーマにした歌を歌ってくれました。
ところがTさんは、「せっかく来て下さったクワイヤの方々を紹介したい」と、
メンバー一人一人について、どんな人か、どういう思いでクワイヤに加わった
か、などを延々と語り始めました。
Tさんが、喋りだすと止まらない人で収拾が付かなかっただけなのか、初め
からご自身の体験は語らないつもりだったのか分かりませんが、結局持ち
時間をすべて費やし、更に時間オーバーして、結局歌と紹介だけで集会が
終わってしまいました。
「出会いを喜ぶ、大事にする」のはとても大切なことです。お互いをよく知る
ことも。しかし講師として招かれた人が、頼まれた話をしないのはいかがな
ものかと思います。集まった人たちは、Tさんの被爆証言を聞きに集まった
のです。事前にアナウンスは無かったので、おそらく関係者もTさんの意図
を知らなかったのでしょう。「私のことを話すより・・・」という思いをもしTさん
が持っておられたとすれば、最初から断わるべきだったのではないかと
思います。
もちろんTさんは善意でそうされたと思います。でも善意の「勘違い」が全て
を台無しにすることは往々にしてあります。(私も経験ありますが・・・)
厳しいことを言えば、平和の歌なら平和を求める人たちのいる所ではいつ
でも聞けるし、歌う人がいなくても自分で歌うことだってできます。けれども
被爆証言は、生きている被爆者の口からしか聞けないのです。
抽象的な概念としての平和や、個々人の生活レベルでの平和に留まらず、
被爆者から非被爆者へ、次の世代へと語り継がれる平和を、この集会の
参加者は希求しています。そうした関係者の意図も、Tさんには伝わって
いなかったのでしょうか。当初は60周年の昨年招くはずだったのを、準備
期間が必要だからと1年延ばした割に、肝心な部分が詰めれていなかった
のは本当に残念でした。
もちろん、いずれは生きた被爆者が一人もいなくなることを見越して、新た
な平和運動を模索することも必要ですけど、今すべきことは何か、個々人
が勝手に考えるのではなく、皆で追求することが求められているのでは
ないでしょうか。

つながり

2006年08月05日 23時55分46秒 | 日記、雑感
この時期に「ヒロシマ」の記事を書かないと、自分でも違和感があり
ます。福岡にいると、やはり入ってくる情報の量が違います。代わり
に「ナガサキ」は多少伝わってきますが、地元ではない分、物足り
なさが残ります。実家ではネットが使えないし、テレビも自由に見れ
ないのも影響していますが。
被爆地以外では関心が薄いのも、むべなるかな、という感じです。

高千穂町の「おいしい土呂久・水俣展」に行って来ました。
当初は高千穂町に一泊する予定でしたが、伴侶と娘を実家に預けて
の日帰りになったので、展示を見て証言を聞くだけで終わってしまい、
個人的に話をすることも、土呂久の集落や廃坑を見に行くことも、今
回は叶いませんでした。
でも、もう一度足を運ぶために大きな宿題を貰ったと、前向きに受け
止めたいと思います。

とにかく余りに多くの出会い、発見があって、とても話をまとめること
ができません。何日かかけて少しずつお分かちしていきたいと思い
ます。
土呂久と大久野島との関係は昨日も触れましたが、更なる接点を
見つけました。土呂久鉱害が明るみに出た後、様々な団体が調査・
研究や支援のために土呂久を訪れているのですが、地元の宮崎医
大や熊本大の他に、なんと岡山大からも検診チームが訪問していま
した。大学卒業後、しばらく岡山に住んでいた私は、運命的なものを
感じました。なぜ土呂久に岡山大が?と疑問に思う方もいらっしゃる
でしょうが、実は岡山は、かつて森永が起こした「ヒ素ミルク事件」の
被害が特に大きかった所なのです。疫学データが揃っており、同じ
砒素の被害者の助けになれば、という思いからの協力だったのでは
ないかと、好意的に解釈しています。

昨日、広島地裁で原爆症の国の認定基準に疑義を挟み、原告全員
を認定する判決が出ましたが、土呂久でもやはり、実態とかけ離れ
た認定基準が問題となりました。水俣では今なお、9割以上の患者
が認定を受けられずにいます。

知れば知るほど、いろいろなことが重なり、つながっていきます。遠く
離れていても、名前も顔も知らなくても、決して自分と無関係ではない
と思えてきます。


亜砒焼き谷

2006年08月04日 23時43分23秒 | 日記、雑感
昨晩から福岡の実家に帰っています。
お盆休みが取れなかったため、伴侶と休みが重なったこの時期の帰省と
なりました。
8月6日の原爆の日に広島を離れるのは不本意ですが、今回は何を置い
ても参加したい集会が5日・6日に高千穂であって、当初は4日の仕事が
終わってから、夜中に車を走らせて駆けつける予定でしたので、一人で
無茶するよりは、ついでに帰省したほうが、家族サービスになるし、私の
移動も楽ですむからいいや、と決断した次第です。
「おいしい土呂久・水俣展」というタイトルのその集会は、以前にも紹介
しましたが、今年が水俣病公式確認50周年・土呂久鉱害告発35周年に
当たることから、水俣市立水俣病資料館の主催で高千穂町民(土呂久
地区も現在は高千穂町です)の協力を得て行われる企画です。
それでなぜ「おいしい」かといいますと、両地域の産物を楽しく味わい
ながら交流を深め、次の世代に継承していくきっかけによう、という意図
が込められているからです。

私が土呂久という場所を知ったのは、小学生か中学生の時です。社会科
の資料集だか参考書だかに、主な公害病の一つとして載っているのを
見ました。砒素中毒とも書かれていたように思いますが、具体的な経緯
や症状までは知りませんでした。
大学を卒業した後、竹原の大久野島という、かつて毒ガスが製造されて
いた島への訪問を友人たちと企画した際に、友人が土呂久を取り上げた
ドキュメンタリーのビデオを見つけてきて、一緒に見てようやく、土呂久
鉱害をいくらか理解しました。
鉱害の原因となった亜砒酸は、染料、農薬、そして毒ガスの原料でも
ありました。土呂久と大久野島はつながっていたのです。
それを知って以来、いつかは土呂久を訪ねたい、いや訪ねなければなら
ない、と思い続けてきました。明日、ようやく念願が叶います。
訪問に先立って、長いこと本棚に置いたままになっていた、川原一之 著
『口伝 亜砒焼き谷』(岩波新書)を読みました。これまで考えていた以上
に長く悲惨な状況が続いていたこと、近年は中島飛行機が深く関与して
いたことなど、いろいろと教えられて、行く前に読んでおいてよかったと
思いました。
明日、レポートも交えて続きを書きます。


ヒロシマに一番電車が走った

2006年08月03日 01時03分09秒 | ヒロシマ
『ヒロシマに一番電車が走った』
NHK広島放送局が募集した被爆体験記に寄せられた300通の手記をもとに
製作され、1993年NHKスペシャルで放送されたアニメーション。
死と絶望の中で生き抜いた実在の少女を主人公に、風化させてはならない
原爆の記憶をわかりやすく次世代に訴える。

戦地に召集された男たちに代わり、広島の路面電車は十代の少女たちが
動かしていた。
15歳の春川弥生は朝の車掌業務に就く際に被爆、母や大勢の仲間を失い
死の街で絶望に暮れる。
しかし、被爆からわずか3日後、廃墟の中を弥生の乗った電車が警笛を
高らかに鳴らして走り始めた。
同じように傷ついた広島の人々を乗せて電車を走らせることで、地獄から
這い上がろうとする少女の姿を描く。
               (NHKエンタープライズ ホームページより引用)


私の教会では昨年から、8月は暑い日中の祈祷会をお休みにして、夜の
祈祷会に特別企画を行なうことになりました。
昨夜は6日の原爆忌にちなんで、原爆物のビデオ上映会でした。
この作品には、被爆の惨状は全くと言っていいほど描かれません。私は
「観なくても分かる」側の人間かも知れませんが、知らない人には一体
何が「地獄」なのかピンと来ないかも知れません。でも、1つの作品だけ
で全てを描くことはできないし、観る側もそれを期待する必要は無いの
ではないでしょうか。と言えるのは、選択肢がいくつもある恵まれた環境
にあるからかも知れませんが・・・。
どんな再現映像も、生き証人の生の言葉に勝るものではありません。私
はその言葉を受け継ぐことができるだろうか、と自問しながら、被爆され
た教会員の方と一緒にビデオを観、共に祈りました。今も癒えることない
心の傷、忘れられない記憶を抱え、原爆症の不安と戦い続ける姉妹の
姿に、そして「だからこそ独り子を十字架に掛けた神様の痛みが分かる」
という言葉に、涙が止まりませんでした。

歴史とは生きている者の歴史であり、生き抜くことに意味がある、と私は
この作品から感じました。福音も、教会も、人を生かすものでなければ
なりません。

ちなみに、作中、去年TBSが放送したドラマで見たような場面が、チラホラ
ありました。ひょっとして、パクリ?

江田島に行って来ました その3

2006年08月02日 23時57分54秒 | 日記、雑感
初日の夜は「キャンドルの集い」。よく、キャンプファイヤーが雨で
中止になった時にやる、あれです。ナースの戴帽式みたいなの、
と言ったほうが分かりいいでしょうか。
会場の武道館は冷房が無く、蒸し風呂状態でしたが、蝋燭の火
を皆で囲む静かなひと時は、また格別です。
自然の中で、解放感たっぷりの午後を過ごし、すっかり興奮した
子どもたちには、厳粛を期待するのは無理でしたが・・・。
蝋燭の火が消えた後の暗闇の中で、「神様が創られた夜は暗い」
という事実に今更ながら気づかされました。

2日目の朝は、場所は変わっても、やはりいつものように礼拝が
持たれます。牧師は教会での奉仕のために初日だけで帰ったの
で、キャンプ組の礼拝は執事のYさんの説教でした。
教職制を採らないバプテストでも、無牧師教会でなければ信徒
メッセージは珍しいです。こういう形で様々な方の話を聞くのも
いいものです。
テキストは、有名な「五千人の給食」の場面。教えられたことや
疑問に思ったことが多々ありましたが、それはまた後日改めて
書きたいと思います。
その後、中学生の子が企画した「ネイチャーゲーム」(自然探索?
収集?ゲーム)を楽しんで、お昼でお開きとなりました。

私は心配性で、娘を他人に預けるのが嫌なので仕方が無いの
ですが、たまには大人だけで楽しめるキャンプもしたいなあ、と
ちょっぴり無いものねだり。
まあ、娘が大きくなるまでの辛抱、ですかね。

旧海軍兵学校には行けなかったので、代わりに図書館で本を
借りて読みました。
豊田穣 著 『江田島教育』(新人物往来社) です。
懐古的記述はありますが、軍隊万歳ではなく冷静に分析された
内容で、当事者ならではの逸話もあり、非常に面白く、為になる
本でした。巻末に当時の教本のコピーが添付されていて、それ
だけでも読む価値のある一冊です。