旧約聖書の「同態復讐法」が「償い」である、ということは、加害者の
主体性を保障している、と理解していいと思います。もちろん、他の
選択肢は許されないわけですが。それは、天地創造において、人間
に自由意志を与え、自らの意思で神に従うよう求めたことに通ずる、
「神の愛」の表れです。
しかし、神は「義なる存在」でもあります。罪を放置・黙認することは
できません。だから「裁き」が発生します。
裁くのは神です。それは、罪とは神に対する罪だからです。誰かを
傷つけたり、命や所有物を奪うことも、創造主・与え主である神の業
を損なうこと、神の御心に反し、その権威を否定することだから、罪
なのです。
「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐
はわたしのすること、わたしが復讐する』と主は言われる」と書いて
あります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ま
せよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 悪に
負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」
(ローマの信徒への手紙 12章19~21節)
自分自身が、また愛する者が、被害を受けた時、加害者に対して
怒りを覚えるのは、自然な感情です。それを否定するつもりは全く
ありません。私自身は、「犯人を殺してやりたい」とは思いたくない
し、思わないだろうと考えてますが、思わなくても殺してしまうかも
知れません。そういう「弱さ」(ノンクリスチャンには誤解を招きそうな
表現ですが、他に適切な言葉が見つからないので・・・)は、私にも、
誰にでもあります。
しかし、それに身を委ねてしまわずに、神に委ねなさい、というのが
聖書のメッセージです。「目には目を」とイエスの「汝の敵を愛せよ」
は、矛盾・対立するのではなく、同一線上にあるのです。自分の
感情や判断に従うのではなく神に委ねることによって、憎しみから
解放されるのであり、その延長(発展系)が「愛敵」なのです。
勘違いしないで頂きたいのですが、「全ての人は、敵を許し、愛さな
ければならない」とか、「信仰があれば必ずできる」などと言うつもり
は毛頭ありません。どんなに心の広い優しい人でも、どんなに冷静
沈着な人でも、どんなに熱心な信者であっても、自分の理性や信心
によって憎しみから解放されること、愛することはできません。神が
介入して、神が働いて初めて、それは実現するのです。
何だか「伝道メッセージ」みたいになってきましたが(笑)、話を元に
戻しましょう。
旧約聖書も、その他の古代法でも、「同態復讐法」は「感情の抑制」
を要求するものです。それは社会の秩序を守る知恵なのです。宗教
的には「心の解放」でもあります。時代が下り、社会が発展すれば
当然、人も法も「発展」を遂げるべきです。
「厳罰化」を求める声は日増しに高まっていますが、重い刑罰を恐れ
て罪を犯さないような人間は、法の目が届かないところでは罪を犯し
ます。刑の軽い罪なら「この程度ならいいか」と犯します。そのような
人間、そうした社会が、未来のあるべき(望ましい)姿でしょうか。
目先の抑止効果を求めるのでなく、罪の問題、心の問題を根本から
解決することを目指すのが、現代人に相応しい対処の仕方だと思い
ます。
主体性を保障している、と理解していいと思います。もちろん、他の
選択肢は許されないわけですが。それは、天地創造において、人間
に自由意志を与え、自らの意思で神に従うよう求めたことに通ずる、
「神の愛」の表れです。
しかし、神は「義なる存在」でもあります。罪を放置・黙認することは
できません。だから「裁き」が発生します。
裁くのは神です。それは、罪とは神に対する罪だからです。誰かを
傷つけたり、命や所有物を奪うことも、創造主・与え主である神の業
を損なうこと、神の御心に反し、その権威を否定することだから、罪
なのです。
「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐
はわたしのすること、わたしが復讐する』と主は言われる」と書いて
あります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ま
せよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 悪に
負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」
(ローマの信徒への手紙 12章19~21節)
自分自身が、また愛する者が、被害を受けた時、加害者に対して
怒りを覚えるのは、自然な感情です。それを否定するつもりは全く
ありません。私自身は、「犯人を殺してやりたい」とは思いたくない
し、思わないだろうと考えてますが、思わなくても殺してしまうかも
知れません。そういう「弱さ」(ノンクリスチャンには誤解を招きそうな
表現ですが、他に適切な言葉が見つからないので・・・)は、私にも、
誰にでもあります。
しかし、それに身を委ねてしまわずに、神に委ねなさい、というのが
聖書のメッセージです。「目には目を」とイエスの「汝の敵を愛せよ」
は、矛盾・対立するのではなく、同一線上にあるのです。自分の
感情や判断に従うのではなく神に委ねることによって、憎しみから
解放されるのであり、その延長(発展系)が「愛敵」なのです。
勘違いしないで頂きたいのですが、「全ての人は、敵を許し、愛さな
ければならない」とか、「信仰があれば必ずできる」などと言うつもり
は毛頭ありません。どんなに心の広い優しい人でも、どんなに冷静
沈着な人でも、どんなに熱心な信者であっても、自分の理性や信心
によって憎しみから解放されること、愛することはできません。神が
介入して、神が働いて初めて、それは実現するのです。
何だか「伝道メッセージ」みたいになってきましたが(笑)、話を元に
戻しましょう。
旧約聖書も、その他の古代法でも、「同態復讐法」は「感情の抑制」
を要求するものです。それは社会の秩序を守る知恵なのです。宗教
的には「心の解放」でもあります。時代が下り、社会が発展すれば
当然、人も法も「発展」を遂げるべきです。
「厳罰化」を求める声は日増しに高まっていますが、重い刑罰を恐れ
て罪を犯さないような人間は、法の目が届かないところでは罪を犯し
ます。刑の軽い罪なら「この程度ならいいか」と犯します。そのような
人間、そうした社会が、未来のあるべき(望ましい)姿でしょうか。
目先の抑止効果を求めるのでなく、罪の問題、心の問題を根本から
解決することを目指すのが、現代人に相応しい対処の仕方だと思い
ます。
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