もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、
手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷に
は打ち傷をもって償わなければならない。
(出エジプト記21章23~25節)
人を打ち殺した者はだれであっても、必ず死刑に処せられる。家畜
を打ち殺す者は、その償いをする。命には命をもって償う。人に傷害
を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には
骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受け
ねばならない。 (レビ記24章17~20節)
あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には
歯、手には手、足には足を報いなければならない。
(申命記19章21節)
聖書を読んだことが無い人でも一度は耳にしたことがあるでしょう。
ハムラビ法典にも同様の規定があることを、世界史の授業で習った
という人も多いと思います。
「同態復讐法」と呼ばれるのだそうですが、こんな名称は、専門家で
ないと知らないでしょう。しかし、この規定に対する一般的なイメージ
として、「復讐」という用語は、ぴったりなのではないでしょうか。
「やられたら、やりかえす」 こう理解している人が、少なくないよう
です。
でも、本当の意味は、全然違います。
「同態復讐法」とは、報復の「上限」を定めたものです。
人間、自分がやられたら、それ以上にやり返したくなるものですが、
それを、自分が受けた被害と同程度までで我慢しなさい、というのが
基本的な趣旨です。際限の無い報復合戦=「憎しみの連鎖」を防ぐ
ためのものです。
よくこれをイスラム法になぞらえる言説を目にしますが、そうした理解
も半分は当たっていますが、中東でのテロの応酬のような状況(その
背後の思想)とは正反対のものです。
冒頭に引用した聖句はいずれも、原語(ヘブライ語)では、「一つの
命(目、歯、等々)」と強調されていることからも、それは伺えます。
ハムラビ法は、この規定の対象を「自由人」に限定しています。それ
は単なる身分差別に留まらず、「自由人」としての責任を自覚させる
ため、という意味合いも含んでいるのだそうです。
一方、旧約聖書は、その範囲を拡大しているように読めます。
冒頭に引用した聖句のうち、一番目の出エジプト記のものは、妊婦
を傷つけ流産させた場合の規定に続けて書かれています。それと
上述の規定を直接結びつける接続詞はありませんが、素直に読め
ば23節以下は、その女性に「その他の損傷」を与えた場合、と読む
ことができますし、実際、英語の聖書には主語が「her ~」となって
いるものもあります。
新約時代においてすら女性は数に含まれなかったという社会状況
を考えれば、この規定は女性の人権を認めた最初の法とも言える
かも知れません。
そして、この出エジプト記の規定は「償い」である点にも留意すべき
でしょう。申命記も、引用した新共同訳では曖昧ですが、原語では
やはり「償い」です。レビ記だけは「刑罰」色が強く出ていますが、
いずれにしても、被害者が加害者に「報復」することを容認するよう
な表現を、ここから直接見出すことはできません。
聖書は「報復」を認めてはいない、むしろ禁じていると言ってもいい
かも知れません。それはなぜか、については、長くなりましたので
明日続きを書きたいと思います。
手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷に
は打ち傷をもって償わなければならない。
(出エジプト記21章23~25節)
人を打ち殺した者はだれであっても、必ず死刑に処せられる。家畜
を打ち殺す者は、その償いをする。命には命をもって償う。人に傷害
を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には
骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受け
ねばならない。 (レビ記24章17~20節)
あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には
歯、手には手、足には足を報いなければならない。
(申命記19章21節)
聖書を読んだことが無い人でも一度は耳にしたことがあるでしょう。
ハムラビ法典にも同様の規定があることを、世界史の授業で習った
という人も多いと思います。
「同態復讐法」と呼ばれるのだそうですが、こんな名称は、専門家で
ないと知らないでしょう。しかし、この規定に対する一般的なイメージ
として、「復讐」という用語は、ぴったりなのではないでしょうか。
「やられたら、やりかえす」 こう理解している人が、少なくないよう
です。
でも、本当の意味は、全然違います。
「同態復讐法」とは、報復の「上限」を定めたものです。
人間、自分がやられたら、それ以上にやり返したくなるものですが、
それを、自分が受けた被害と同程度までで我慢しなさい、というのが
基本的な趣旨です。際限の無い報復合戦=「憎しみの連鎖」を防ぐ
ためのものです。
よくこれをイスラム法になぞらえる言説を目にしますが、そうした理解
も半分は当たっていますが、中東でのテロの応酬のような状況(その
背後の思想)とは正反対のものです。
冒頭に引用した聖句はいずれも、原語(ヘブライ語)では、「一つの
命(目、歯、等々)」と強調されていることからも、それは伺えます。
ハムラビ法は、この規定の対象を「自由人」に限定しています。それ
は単なる身分差別に留まらず、「自由人」としての責任を自覚させる
ため、という意味合いも含んでいるのだそうです。
一方、旧約聖書は、その範囲を拡大しているように読めます。
冒頭に引用した聖句のうち、一番目の出エジプト記のものは、妊婦
を傷つけ流産させた場合の規定に続けて書かれています。それと
上述の規定を直接結びつける接続詞はありませんが、素直に読め
ば23節以下は、その女性に「その他の損傷」を与えた場合、と読む
ことができますし、実際、英語の聖書には主語が「her ~」となって
いるものもあります。
新約時代においてすら女性は数に含まれなかったという社会状況
を考えれば、この規定は女性の人権を認めた最初の法とも言える
かも知れません。
そして、この出エジプト記の規定は「償い」である点にも留意すべき
でしょう。申命記も、引用した新共同訳では曖昧ですが、原語では
やはり「償い」です。レビ記だけは「刑罰」色が強く出ていますが、
いずれにしても、被害者が加害者に「報復」することを容認するよう
な表現を、ここから直接見出すことはできません。
聖書は「報復」を認めてはいない、むしろ禁じていると言ってもいい
かも知れません。それはなぜか、については、長くなりましたので
明日続きを書きたいと思います。
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