前にも書いたと思いますが、私はバプテスト教会に所属しています。
バプテストとは、バプテスマという言葉から来た名前で、全身を水に
沈める浸礼を最初に主張したプロテスタント教会です。
新約聖書原典のギリシャ語は、もちろん「バプテスマ」なのですが、
具体的な描写は実はあまり多くありません。有名なのは、イエスも
公生涯の初めに受けた「バプテスマのヨハネ」のバプテスマで、これ
は「共観福音書」と呼ばれるマタイ・マルコ・ルカの三福音書に共通
して書かれています。ヨハネ福音書だけが、イエス自身もバプテスマ
を授けていたことを記しています。そして使徒言行録で、ピリポという
弟子がエチオピアの宦官にバプテスマを授ける場面くらいでしょうか。
尤も、これだけあれば充分と言う人もいるでしょうが。
旧約聖書・列王記で、預言者エリシャがシリア軍の隊長ナアマンの
皮膚病を癒す場面をその起源と考える人もいますが、こうした「身の
清め」の風習(神道の「禊」に近い)とバプテスマとの間には大きな
差異があります。もっと言えば、「ヨハネのバプテスマ」と「イエスの
名によるバプテスマ」の間にも、明白な違いがあります。
「ヨハネのバプテスマ」は、悔い改め、神の前でのへりくだりですが、
そこに「救いの確信」はありません。神の裁きへの恐怖のみです。
しかし、キリストの十字架と復活以降、「大宣教命令」によって弟子
たちが授けるようになった「イエスの名によるバプテスマ」は、罪の
許し、再生、そして永遠の命の希望を与えるものです。
聖書を読む限り、バプテスマの形式は浸礼です。もちろん、全身を
水に沈めることが不可能な状況も時には存在したでしょうから、形
にこだわる必要は無い、という考え方もあるでしょう。しかし、水に
身を沈めることの意味~罪に死んで義に生きるという、救いと復活
の雛型としての意味~を薄め、洗礼を授ける教会や指導者の権威
を必要以上に高める恐れがある(実際、そういう歴史を辿った)滴礼
に対しては、きちんと検証・総括する必要があったと言えるでしょう。
また、滴礼は幼児洗礼とセットになっていた歴史にも留意する必要
があります。新約時代の信者たちは、ほとんど皆が「新たに信じた
人」であり、何世代にもわたる信仰の継承というのは、言及されて
いないという面もありますが、パウロに見られる「割礼」の否定は
本人の自覚的信仰の促しとも理解できると思います。信仰告白に
基づくバプテスマとして、従来の洗礼とは一線を画す意味でも、形
にこだわる必要があったと考えられます。
現代においては、多くの教会で、信仰告白に基づく洗礼・浸礼が
行なわれています。幼児洗礼を残している教会でも、大きくなって
から改めて信仰告白をしたり、「親が子を献げる行為」と位置づけて
本人が希望すれば再洗礼を認めるなど、その意味合いは変わって
きています。
バプテストとは、バプテスマという言葉から来た名前で、全身を水に
沈める浸礼を最初に主張したプロテスタント教会です。
新約聖書原典のギリシャ語は、もちろん「バプテスマ」なのですが、
具体的な描写は実はあまり多くありません。有名なのは、イエスも
公生涯の初めに受けた「バプテスマのヨハネ」のバプテスマで、これ
は「共観福音書」と呼ばれるマタイ・マルコ・ルカの三福音書に共通
して書かれています。ヨハネ福音書だけが、イエス自身もバプテスマ
を授けていたことを記しています。そして使徒言行録で、ピリポという
弟子がエチオピアの宦官にバプテスマを授ける場面くらいでしょうか。
尤も、これだけあれば充分と言う人もいるでしょうが。
旧約聖書・列王記で、預言者エリシャがシリア軍の隊長ナアマンの
皮膚病を癒す場面をその起源と考える人もいますが、こうした「身の
清め」の風習(神道の「禊」に近い)とバプテスマとの間には大きな
差異があります。もっと言えば、「ヨハネのバプテスマ」と「イエスの
名によるバプテスマ」の間にも、明白な違いがあります。
「ヨハネのバプテスマ」は、悔い改め、神の前でのへりくだりですが、
そこに「救いの確信」はありません。神の裁きへの恐怖のみです。
しかし、キリストの十字架と復活以降、「大宣教命令」によって弟子
たちが授けるようになった「イエスの名によるバプテスマ」は、罪の
許し、再生、そして永遠の命の希望を与えるものです。
聖書を読む限り、バプテスマの形式は浸礼です。もちろん、全身を
水に沈めることが不可能な状況も時には存在したでしょうから、形
にこだわる必要は無い、という考え方もあるでしょう。しかし、水に
身を沈めることの意味~罪に死んで義に生きるという、救いと復活
の雛型としての意味~を薄め、洗礼を授ける教会や指導者の権威
を必要以上に高める恐れがある(実際、そういう歴史を辿った)滴礼
に対しては、きちんと検証・総括する必要があったと言えるでしょう。
また、滴礼は幼児洗礼とセットになっていた歴史にも留意する必要
があります。新約時代の信者たちは、ほとんど皆が「新たに信じた
人」であり、何世代にもわたる信仰の継承というのは、言及されて
いないという面もありますが、パウロに見られる「割礼」の否定は
本人の自覚的信仰の促しとも理解できると思います。信仰告白に
基づくバプテスマとして、従来の洗礼とは一線を画す意味でも、形
にこだわる必要があったと考えられます。
現代においては、多くの教会で、信仰告白に基づく洗礼・浸礼が
行なわれています。幼児洗礼を残している教会でも、大きくなって
から改めて信仰告白をしたり、「親が子を献げる行為」と位置づけて
本人が希望すれば再洗礼を認めるなど、その意味合いは変わって
きています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます