竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

今日は何の日 「赤穂浪士討ち入りの日」

2019年12月14日 | 日本の歴史
令和元年12月14日(土)
お早うございます。

<12月14日今日は何の日>
1702年 大石内蔵助ら赤穂浪士が吉良上野介邸に討ち入り。主君浅野長矩の仇を討つ。

吉良邸討ち入り。二代目山崎年信画、1886年

 元禄15年12月14日(1703年1月30日)、四十七士は堀部安兵衛の借宅と杉野十平次の借宅にて着替えを済ませ、寅の上刻(午前4時頃)に借宅を出た。

そして吉良邸では大石内蔵助率いる表門隊と大石主税率いる裏門隊に分かれ、表門隊は途中で入手した梯子で吉良邸に侵入、裏門隊は掛矢(両手で持って振るう大型の木槌)で門を打ち破り吉良邸に侵入した。

表門隊は侵入するとすぐに、口上書を入れた文箱を竹竿にくくりつけ、玄関の前に立てた。

裏門隊は吉良邸に入るとすぐに「火事だ!」と騒ぎ、吉良の家臣たちを混乱させた。
また吉良の家臣達が吉良邸そばの長屋に住んでいたのだが、その長屋の戸口を鎹(かすがい)で打ちつけて閉鎖し、家臣たちが出られないようにした。
吉良邸には100人ほど家来がいたが、実際に戦ったのは40人もいなかったと思われる。

隣の屋敷の屋根から様子をうかがっている者がいたので、片岡源五右衛門と小野寺十内が仇討ちを行っている旨を伝えたところ、了承したしるしに高提灯の数が増えた。

四十七士は吉良の寝間に向かったものの、吉良は既に逃げ出していた。
茅野和助が吉良の夜具に手を入れ、夜具がまだ温かい事を確認した。
吉良はまだ寝間を出たばかりだったのである。四十七士は吉良を探した。

そして台所の裏の物置のような部屋を探したところ、中から吉良の家来が二人切りかかってきたのでこれを返り討ちにし、中にいた白小袖の老人を間十次郎が槍で突き殺した。
この老人が吉良であると思われたので、浅野内匠頭が背中につけた傷跡を確認し、吉良方の足軽にこの死骸が吉良である事を確認させた。
無事吉良を討ち取ったのである。

そこで合図の笛を吹き、四十七士を集めた。

ここまでわずか二時間程度。
吉良側の死者は15人負傷者は23人であった。

一方の赤穂浪士側には死者はおらず、負傷者は二人で、原惣右衛門が表門から飛び降りたとき足を滑らせて捻挫し、近松勘六が庭で敵の山吉新八郎と戦っているときに池に落ちて太ももを強く刺されて重傷をおっている。

浪士たちの討ち入り事件は、討ち入り2日後の14日の記録にすでに「江戸中の手柄」と書いてあるほど、すぐさま噂として広まった。
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