令和3年12月18日(土)
お早うございます。
さて今日は、私、竹内しげやすの一般質問の続きを掲載いたします。
令和3年12月定例会 令和3年12月7日(火)
<質問要旨>
1、穂の国から新説 徐福伝説による、国際交流を始めとするまちおこしについて
(1)徐福伝説について
ア 徐福について
<以上が12月8日掲載済みです>
イ 日本各地に伝わる徐福伝説について
<以上が12月14日掲載済みです>
ウ 穂の国における徐福伝説について
<以上が今回掲載した内容です>
<以下の項目は次回へ続く>
(2) 穂の国について
ア 穂の国の成り立ちについて
イ 穂の国の代表的な遺跡について
ウ 安曇族と赤日子神社、赤日子遺跡について
(3) 穂の国の浪漫とまちおこしについて
2、市民病院の安定経営について
(1)現状について
(2) 今後について
(3) 新型コロナウイルス感染症患者の受入病床について
(4) 今後の診療体制について
(5) 新棟の進捗状況について
それでは、穂の国における徐福伝説について伺います。
ウ) 穂の国における徐福伝説について
答弁) 徐福一行が三河に移り住みその子孫は「秦(はた)」氏を名乗ったという言い伝えがあるそうで、豊川市小坂井町の菟足(うたり)神社は秦氏によって現在地に移されたとも伝えられており、境内には小坂井町時代に建てられた説明看板があります。
旧宝飯郡小坂井町、今は豊川市小坂井町の菟足神社に徐福伝説が伝わっています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/30/53b7c342860489539793f17b79a8805b.jpg)
パネルの9枚目を御覧ください。((菟足神社と徐福伝説)
豊川市小坂井町の菟足神社境内に解説板が建てられています。
解説板には豊川市教育委員会と書かれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/72/247cd56a9c0e8232a24fb2b096eabad6.jpg)
パネルの10枚目を御覧ください。(菟足神社貝塚)
徐福伝説の解設板の横に立っています。
菟足神社貝塚の解説板です。解説板にはこのように書かれています。
「当時は目の前を流れる川(現在の走川)の水運を利用して浜へ出て貝を採取、また、遺跡の所在する周辺は南向きの台地で、斜面には天然の湧き水もあり、生活環境としては絶好の場所である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/ce/af2ba69a94006881833400a1c34baeaa.jpg)
パネルの11枚目を御覧ください。(菟足神社と徐福伝説詳細)
菟足神社と徐福伝説の内容です
この解説板には、徐福渡来地の根拠が三つ書かれています。その中でも、・ 牛窪記(うしくぼき)〔元禄十年(一六九七)頃成立〕には、「崇神(すじん)天皇御宇(ぎょーう・君主が天下を治めている期間)二紀州手間戸之湊(てまどのみなと)ヨリ徐氏古座侍郎泛舟(こざのじろうふねをうかべ)、此国(ここ)湊六本松(おきのろっぱんまつ)ト云浜ニ来ル。…中略…徐福ガ孫古座郎三州ニ移リ来ル故ニ、本宮山下秦氏者多シ…」とあります。徐福の孫が「10代崇神(すいじん)天皇の御世、前97年~前30年(徐福が日本に渡来したのが前210年とすると)に湊六本松(おきのろっぱんまつ)ト云浜ニ来ルと記述されている。おそらく御津町の浜だと思われます。
解説板の内容を纏めると、『徐福の子孫は秦氏を名乗った。秦氏は菟足神社の創設者と思われる。神社においては中国的な生贄神事が行われている。今は日色野町(ひしきのちょう)には「秦氏の先祖は、中国から熊野に渡来し、熊野からこの地方に来た」という言い伝えがある。三河と熊野は海路の交流があり熊野信仰の修験者が徐福伝承を伝えた可能性もある』となります。また東三河に渡来したのは、既に書いたように徐福本人ではなく、孫の古座侍郎(こざのじろう)と菟足神社の徐福伝説に記載されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/4d/86c89712cb789df4df7dc12137480f68.jpg)
パネルの12枚目を御覧ください。これは、菟足神社と徐福伝説の裏面です。
徐福の紹介と秦の始皇帝との年代が書かれています
ここまでで徐福伝説のあらすじが分かって頂けたでしょうか?
それでは徐福が渡来した以降の穂の国について注目してみたいと思います。
次回へつづく!
お早うございます。
さて今日は、私、竹内しげやすの一般質問の続きを掲載いたします。
令和3年12月定例会 令和3年12月7日(火)
<質問要旨>
1、穂の国から新説 徐福伝説による、国際交流を始めとするまちおこしについて
(1)徐福伝説について
ア 徐福について
<以上が12月8日掲載済みです>
イ 日本各地に伝わる徐福伝説について
<以上が12月14日掲載済みです>
ウ 穂の国における徐福伝説について
<以上が今回掲載した内容です>
<以下の項目は次回へ続く>
(2) 穂の国について
ア 穂の国の成り立ちについて
イ 穂の国の代表的な遺跡について
ウ 安曇族と赤日子神社、赤日子遺跡について
(3) 穂の国の浪漫とまちおこしについて
2、市民病院の安定経営について
(1)現状について
(2) 今後について
(3) 新型コロナウイルス感染症患者の受入病床について
(4) 今後の診療体制について
(5) 新棟の進捗状況について
それでは、穂の国における徐福伝説について伺います。
ウ) 穂の国における徐福伝説について
答弁) 徐福一行が三河に移り住みその子孫は「秦(はた)」氏を名乗ったという言い伝えがあるそうで、豊川市小坂井町の菟足(うたり)神社は秦氏によって現在地に移されたとも伝えられており、境内には小坂井町時代に建てられた説明看板があります。
旧宝飯郡小坂井町、今は豊川市小坂井町の菟足神社に徐福伝説が伝わっています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/30/53b7c342860489539793f17b79a8805b.jpg)
パネルの9枚目を御覧ください。((菟足神社と徐福伝説)
豊川市小坂井町の菟足神社境内に解説板が建てられています。
解説板には豊川市教育委員会と書かれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/72/247cd56a9c0e8232a24fb2b096eabad6.jpg)
パネルの10枚目を御覧ください。(菟足神社貝塚)
徐福伝説の解設板の横に立っています。
菟足神社貝塚の解説板です。解説板にはこのように書かれています。
「当時は目の前を流れる川(現在の走川)の水運を利用して浜へ出て貝を採取、また、遺跡の所在する周辺は南向きの台地で、斜面には天然の湧き水もあり、生活環境としては絶好の場所である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/ce/af2ba69a94006881833400a1c34baeaa.jpg)
パネルの11枚目を御覧ください。(菟足神社と徐福伝説詳細)
菟足神社と徐福伝説の内容です
この解説板には、徐福渡来地の根拠が三つ書かれています。その中でも、・ 牛窪記(うしくぼき)〔元禄十年(一六九七)頃成立〕には、「崇神(すじん)天皇御宇(ぎょーう・君主が天下を治めている期間)二紀州手間戸之湊(てまどのみなと)ヨリ徐氏古座侍郎泛舟(こざのじろうふねをうかべ)、此国(ここ)湊六本松(おきのろっぱんまつ)ト云浜ニ来ル。…中略…徐福ガ孫古座郎三州ニ移リ来ル故ニ、本宮山下秦氏者多シ…」とあります。徐福の孫が「10代崇神(すいじん)天皇の御世、前97年~前30年(徐福が日本に渡来したのが前210年とすると)に湊六本松(おきのろっぱんまつ)ト云浜ニ来ルと記述されている。おそらく御津町の浜だと思われます。
解説板の内容を纏めると、『徐福の子孫は秦氏を名乗った。秦氏は菟足神社の創設者と思われる。神社においては中国的な生贄神事が行われている。今は日色野町(ひしきのちょう)には「秦氏の先祖は、中国から熊野に渡来し、熊野からこの地方に来た」という言い伝えがある。三河と熊野は海路の交流があり熊野信仰の修験者が徐福伝承を伝えた可能性もある』となります。また東三河に渡来したのは、既に書いたように徐福本人ではなく、孫の古座侍郎(こざのじろう)と菟足神社の徐福伝説に記載されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/4d/86c89712cb789df4df7dc12137480f68.jpg)
パネルの12枚目を御覧ください。これは、菟足神社と徐福伝説の裏面です。
徐福の紹介と秦の始皇帝との年代が書かれています
ここまでで徐福伝説のあらすじが分かって頂けたでしょうか?
それでは徐福が渡来した以降の穂の国について注目してみたいと思います。
次回へつづく!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます