竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

1945年8月11日 樺太の戦い

2023年08月11日 | 日本の歴史
令和5年8月11日(金)
お早うございます。
今日は祝日「山の日」です。
 山の日とは、「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」という趣旨の国民の祝日です。
他の祝日と異なり、山に関する特別な出来事などの明確な由来があるわけではなく、「山の日」を国民の祝日にしようという様々な動きによってできました。
 日本は国土のおよそ6~7割が山地で、周りを海に囲まれているため、山や海に畏敬の念を抱きながら生活し、それらの恵みに感謝しながら自然とともに生きてきました。
1995年に「海の日」が国民の祝日になると、山梨県をはじめ複数の府県で「山の日」ができ、2002年の国際山岳年に「山の日」制定の構想が本格化しました。
 その後、2010年に日本山岳協会など山岳5団体が「山の日」制定協議会を設立し、2013年に超党派の「山の日」制定議員連盟が発足すると、「山の日」を国民の祝日にする運動が全国に広がりました。
こうした動きを受けて2014年に「山の日」が制定され、2016年に施行となりました。


<78年前の1945年8月11日はこんな日だった。>
日本政府の対外情報発信を担う「同盟通信社」が8月10日、対外放送で、日本の降伏受け入れ意思を表明した。翌11日のアメリカ新聞各紙には「日本、降伏受け入れ」の活字が大きく踊った。
しかしこのニュースは、日本国民には伏せられた。
8月11日付の新聞各紙には、まったく方向性の異なる2つの談話が並んで掲載された。
 1つは下村宏・内閣情報局総裁の談話。
「新型爆弾」やソ連侵攻で、戦況は「最悪の状態」と認め、国民に「国体の護持」、つまり天皇を中心とする社会体制の維持を呼びかけた。
降伏が近いことを暗示し、戦時体制から新体制への移行が冷静に行われることを求めたとみられる。
「今や真に最悪の状態に立至ったことを認めざるを得ない。
正しく国体を護持し民族の名誉を保持せんとする最後の一線を守るため、政府は固より最善の努力を保持しつつあるが、1億国民にありても国体の護持のためにはあらゆる困難を克服して行くことを期待する」
 これに対し、阿南惟幾・陸軍大臣の談話は「全軍将兵に告ぐ」と題し、徹底抗戦を呼びかける内容だった。
「断乎神州護持の聖戦を戦い抜かんのみ。たとえ草を喰み土を囓り野に付するとも、断じて戦うところ死中自ら活あるを信ず」
 朝日新聞社内では、若手を中心に「阿南陸相の訓示を没にすべきだ」という意見が上がり、大激論になったという。
「政府がすでに宣言受諾に決定し、連合国に通告という段階で、徹底抗戦の陸相訓示を掲載するのは誤りだ。もしこの報道によって、さらに原爆が投下されることになったらどうするか」(部員・団野信夫ら)
「載せたいと思う。この際の新聞の使命は、国全体がスムーズに終戦になるような役割を果すことで、急激に紙面の調子を変えることは、かえって思わぬ刺激を軍や世間に与えて、国内動乱などを引き起こさぬとも限らぬ」(政経部長・長谷部忠)

 結局、朝日新聞の東京本社版は、両方を掲載しながら、下村談話の見出しの活字を大きく、太くすることで目立たせることを狙ったという。
しかし、8月15日の玉音放送で初めて終戦を知ったという証言も多い中で、どこまで意図が読者に通じたかは分からない。

1945年8月11日 05:00 ソ連軍、南樺太に攻撃開始(樺太の戦い)。
戦争はまだ続いていました。

日本の第88師団司令部が置かれた樺太庁博物館。

 1945年(昭和20年)8月9日、日ソ中立条約を破棄し、対日参戦したソビエト連邦は、8月11日に南樺太の占領作戦を開始した。
侵攻の目的は南樺太の獲得と、次に予定された北海道侵攻の拠点確保だった。
ソ連軍は北樺太から陸上侵攻する歩兵師団・歩兵旅団・戦車旅団各1個が攻撃の中心で、補助攻勢として北太平洋艦隊と歩兵旅団1個による上陸作戦が実施された。
日本軍は、歩兵師団1個を中心に応戦し、国境地帯ではソ連軍の拘束に成功した。
 8月15日に日本のポツダム宣言受諾が布告されて、太平洋戦争(大東亜戦争)は停戦に向かった。
日本軍大本営は、8月15日各軍に現任務を続行ながら積極進攻作戦の中止を、8月16日やむをない自衛戦闘を除いては戦闘行動の停止を、全軍に命じたが、8月16日札幌第五方面軍司令官の樋口季一郎中将は、樺太第88師団に南樺太を死守するよう命じた。
 ソ連軍は南樺太各地への空襲を開始、ソ連軍の南樺太への進攻とともに日本軍との戦闘が続くこととなった。
19日大本営は22日0時以降の一切の戦闘停止を命じたが、逆に樋口中将はあらためて南樺太死守を命じた。
現実には、南樺太での停戦は8月19日以降一部都市の失陥により徐々に進んだものの、ソ連軍の上陸作戦によるあらたな戦線拡大もあった。
しかし、8月23日頃までに日本軍の主要部隊との停戦が成立し、8月25日の大泊(コルサコフ)占領をもって樺太の戦いは終わった。

 当時、南樺太には40万人以上の日本の民間人が居住しており、ソ連軍侵攻後に北海道方面への緊急疎開が行われた。
自力脱出者を含めて10万人が島外避難に成功したが、緊急疎開船3隻がソ連軍に攻撃されて約1,700名が死亡した(三船殉難事件)。
陸上でもソ連軍の市街戦など無差別攻撃がしばしば行われ、約2,000人の民間人が死亡した。

国内では、鳥栖空襲、加治木空襲、久留米空襲とアメリカ軍による空襲は続いていた。
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