10月12日(金)
上ノ郷城跡試掘調査を見学に行ってまいりました。現地では、既に試掘箇所が3ヶ所あり、博物館長の内田さん、学芸員の松田さんより説明を受けました。
上ノ郷城(かみのごうじょう)は、かつて愛知県蒲郡市神ノ郷町にあった城である。別名「西之郡之城」、「宇土城」、「鵜殿城」、「神ノ郷城」。昭和32年(1957年)1月10日に、蒲郡市指定史跡に指定されている。
築城年代は「平安時代末期に五男十郎と言う者が壇ノ浦の戦いで勝った褒美として当地をもらい、城を建てた」と言うものや、「戦国時代になって建てられた」など諸説あるが、正しい年代ははっきりとしていない。ただ鵜殿長将の頃には鵜殿氏の居城となっていたようで、この城を拠点として鵜殿氏は、現在の蒲郡市のほぼ全域と幸田町の一部を勢力下に治めていた。 永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで、鵜殿氏の主君である今川義元が討たれると、周辺の諸将が徳川家康に服属。しかし中、上ノ郷城主鵜殿長照は義元の妹の子であり、今川方に留まったため、同城は孤立した。 永禄5年(1562年)に徳川家康と松平清善らの攻撃を受けるが、堅城である上ノ郷城はなかなか落城しなかった。そのため家康は甲賀衆を用いて城内に火を放ち、その混乱の中から攻め入られ、同城は落城した。その際、鵜殿長照は討死にし、長照の子・鵜殿氏長、鵜殿氏次は捕らえられた。その後は攻め手に加わっていた久松俊勝の居城となり、子の松平康元に継がれ、家康が関東に移封となると池田輝政が有し、のちに廃城となった。現在は大部分が私有地のミカン畑となっており、郭や空堀、土塁、井戸などが残存している他、城があったことを示す石碑が建てられている。
試掘の状況を見学
平安時代の土器も出土
上ノ郷城跡(主郭部)遺構配置図 画像をクリックすると拡大されます。
帰りに赤日子神社へお参りして来ました。
<赤日子神社>
創立された年代は不明ですが、「総国風土記」に674年(天智天皇甲戌)に、宝飯郡赤日子郷赤日子神社より寄進があったとの記事があり、この頃には創立されていたことが伺われます。祭神は、綿積豊玉彦命(わたつみとよたまひこのみこと)彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)豊玉姫尊(とよたまひめのみこと)です。長野県南安曇郡穂高神社でも安曇連(あずみむらじ)の祖であり綿積豊玉彦命が祖神とされており、この地との関係が想像されます。
さらに、三河地方は養蚕の伝統が古くからあり、なかでも赤日子神社は養蚕の祖神をまつる代表的な神社で、拝殿の西には養蚕祖神をまつる塚があります。渡来族である安曇族が養蚕を日本にもたらしたことを考えると、渥美(あつみ)半島からこの地方にかけて、古くは安曇族の勢力下にあったことが伺われます。
養蚕祖仁の塚
赤日子神社は、蒲郡で最古の式内社ですが、「文得実録」で、赤日子神社が851年(仁寿元年)に従5位下を授かったとあります。その他の文献では、さらに865年に従5位上、876年(貞観7年)正5位下を授かったとあります。次々に位を引き上げられたことから、この地方の豪族の豊かさが想像され、赤日子の古名である赤孫郷の範囲は、神ノ郷・坂本・清田、水竹・五井・柏原・西迫・竹谷、蒲郡・小江であり、当時は蒲郡の中央部を支配していたと考えられます。今では、山の手にありますが、当時は、海が入り込んでおり、近くの落合川付近は深い入り江となっていたため、比較的海に近かったらしく、神ノ郷がこの地方の中心となっていたようです。
赤日子神社は、雨乞いでも知られていますが、神社西の聖山山頂の通称「お皿様」はこの神社の奥の院にあたります。
東郷平八郎謹書
上ノ郷城跡試掘調査を見学に行ってまいりました。現地では、既に試掘箇所が3ヶ所あり、博物館長の内田さん、学芸員の松田さんより説明を受けました。
上ノ郷城(かみのごうじょう)は、かつて愛知県蒲郡市神ノ郷町にあった城である。別名「西之郡之城」、「宇土城」、「鵜殿城」、「神ノ郷城」。昭和32年(1957年)1月10日に、蒲郡市指定史跡に指定されている。
築城年代は「平安時代末期に五男十郎と言う者が壇ノ浦の戦いで勝った褒美として当地をもらい、城を建てた」と言うものや、「戦国時代になって建てられた」など諸説あるが、正しい年代ははっきりとしていない。ただ鵜殿長将の頃には鵜殿氏の居城となっていたようで、この城を拠点として鵜殿氏は、現在の蒲郡市のほぼ全域と幸田町の一部を勢力下に治めていた。 永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで、鵜殿氏の主君である今川義元が討たれると、周辺の諸将が徳川家康に服属。しかし中、上ノ郷城主鵜殿長照は義元の妹の子であり、今川方に留まったため、同城は孤立した。 永禄5年(1562年)に徳川家康と松平清善らの攻撃を受けるが、堅城である上ノ郷城はなかなか落城しなかった。そのため家康は甲賀衆を用いて城内に火を放ち、その混乱の中から攻め入られ、同城は落城した。その際、鵜殿長照は討死にし、長照の子・鵜殿氏長、鵜殿氏次は捕らえられた。その後は攻め手に加わっていた久松俊勝の居城となり、子の松平康元に継がれ、家康が関東に移封となると池田輝政が有し、のちに廃城となった。現在は大部分が私有地のミカン畑となっており、郭や空堀、土塁、井戸などが残存している他、城があったことを示す石碑が建てられている。
試掘の状況を見学
平安時代の土器も出土
上ノ郷城跡(主郭部)遺構配置図 画像をクリックすると拡大されます。
帰りに赤日子神社へお参りして来ました。
<赤日子神社>
創立された年代は不明ですが、「総国風土記」に674年(天智天皇甲戌)に、宝飯郡赤日子郷赤日子神社より寄進があったとの記事があり、この頃には創立されていたことが伺われます。祭神は、綿積豊玉彦命(わたつみとよたまひこのみこと)彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)豊玉姫尊(とよたまひめのみこと)です。長野県南安曇郡穂高神社でも安曇連(あずみむらじ)の祖であり綿積豊玉彦命が祖神とされており、この地との関係が想像されます。
さらに、三河地方は養蚕の伝統が古くからあり、なかでも赤日子神社は養蚕の祖神をまつる代表的な神社で、拝殿の西には養蚕祖神をまつる塚があります。渡来族である安曇族が養蚕を日本にもたらしたことを考えると、渥美(あつみ)半島からこの地方にかけて、古くは安曇族の勢力下にあったことが伺われます。
養蚕祖仁の塚
赤日子神社は、蒲郡で最古の式内社ですが、「文得実録」で、赤日子神社が851年(仁寿元年)に従5位下を授かったとあります。その他の文献では、さらに865年に従5位上、876年(貞観7年)正5位下を授かったとあります。次々に位を引き上げられたことから、この地方の豪族の豊かさが想像され、赤日子の古名である赤孫郷の範囲は、神ノ郷・坂本・清田、水竹・五井・柏原・西迫・竹谷、蒲郡・小江であり、当時は蒲郡の中央部を支配していたと考えられます。今では、山の手にありますが、当時は、海が入り込んでおり、近くの落合川付近は深い入り江となっていたため、比較的海に近かったらしく、神ノ郷がこの地方の中心となっていたようです。
赤日子神社は、雨乞いでも知られていますが、神社西の聖山山頂の通称「お皿様」はこの神社の奥の院にあたります。
東郷平八郎謹書