しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

秀吉はなぜ「伴天連(バテレン)追放令」を出したのか~~その1

2011年02月05日 | 大航海時代の西洋と日本

ザビエルがはじめて日本で伝えたキリスト教は、時の権力者であった織田信長の庇護を受けて順調に信者を増やしていった。

豊臣秀吉も当初は織田信長の政策を継承してキリスト教布教を容認していたのだが、天正15年(1587)に秀吉はキリスト教に対する態度を急変させ、博多で「伴天連追放令」を出している。(「伴天連」とはキリスト教宣教師のこと) 

学生時代に学んだ通史では、なぜ「伴天連追放令」が出されたのかが良くわからなかったので、この点について調べてみた。



まず秀吉が博多にいたのは、秀吉は京都を前田利家、大阪城は秀次に守らせて九州を平定するために出陣したためだ。
その先陣は切支丹大名の高山右近で、その家臣には切支丹がかなりいて、十字が付いた旗などを携えた兵が多数右近の軍に参加していた記録が残されている。
そもそもこの九州平定は、そもそも2年前にイエズス会の日本準管区長*のガスパル・コエリョが秀吉に、切支丹大名を秀吉の味方につけると進言して実現したようなものである。 (日本は準管区であったので、コエリョはイエズス会の日本での活動の最高責任者) 

大村・有馬の切支丹大名は島津に何度も脅かされていたので、イエズス会には秀吉の九州攻めは願ってもないことであったはずだ。だから高山右近も献身的に働いた。

ところが、切支丹大名の活躍により九州平定に成功すると、秀吉は右近の役割が終わったのを見計らったように高山右近にキリスト教の棄教をせまり、それに抵抗した右近を追放しているのだ。いったいどういうことなのか。


<晩年の高山右近>

この経緯については、ポルトガル出身のイエズス会宣教師で当時日本に滞在し、信長や秀吉とも会見したルイス・フロイスが詳細な記録を残しており、中公文庫でその翻訳を読む事が出来る。(ルイス・フロイス「日本史4」豊臣秀吉篇Ⅰ) 

それを読むと、秀吉は7月24日に怒り狂い、夜にイエズス会の日本準管区長のガスパル・コエリョに対し使いを出して、次の様な太閤の言葉を伝えさせている。

「その第一は、汝らは何ゆえに日本の地において、今まであのように振舞ってきたのか。…仏僧たちは、その屋敷や寺院の中で教えを説くだけであり…汝らのように宗徒を作ろうとして、一地方の者をもって他地方の者をいとも熱烈に扇動するようなことはしない。よって爾後、汝らはすべて当下九州に留まるように命ずる。…もし、それが不服ならば、汝らは全員シナ(マカオ)へ帰還せよ。…」

「第二の伝言は、汝らは何ゆえに馬や牛を食べるのか。…馬は、道中、人間の労苦を和らげ、荷物を運び、戦場で仕えるために飼育されたものであり、耕作用の牛は、百姓の道具として存在する。しかるにもし汝らがそれを食するならば、日本の諸国は、人々にとってはなはだ大切な二つの助力を奪われることとなる。…」

「第三は、予は商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られていったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すように取り計られよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」(ルイス・フロイス「日本史4」中公文庫p.207-208) 

これらの太閤の言葉に対し、三つ目の日本人奴隷の問題に関してイエズス会準管区長のコエリョが答えた内容については同書にこう書かれている。

「…この忌むべき行為の濫用は、ここ下の九ヶ国(九州)においてのみ弘まったもので、五畿内や坂東地方では見られぬことである。我ら司祭たちは、かかる人身売買、および奴隷売買を廃止させようと、どれほど苦労したか知れぬのである。だがここにおいてもっとも肝要なのは、外国船が貿易のために来航する港の殿たちが、厳にそれを禁止せねばならぬという点である。」(同書p.210-211) 
と、奴隷売買は九州だけでおこっていることで、我らも廃止させようと努力しているのに取り締まらない日本側に問題があると答えたのである。
「外国船が貿易のために来航する港の殿たち」とは、九州の切支丹大名を遠回しに述べたものである。

翌朝秀吉の怒りはさらに激しくなり、「キリシタンは、いかなる理由に基づき、神や仏の寺院破壊し、その像を焼き、その他これに類した冒涜を働くのか」との伝言を持たせて、再びコエリョに使者を送った。

そこでコエリョが答えた内容は
「キリシタンたちは、我らの教えを聞き、真理を知り、新たに信ずるキリシタンの教え以外には救いがないことを悟った。そして彼らは、…神も仏も、またそれらを安置してある寺院も何ら役に立たぬことを知った。彼らは、…神仏は自分たちの救済にも現世の利益にも役立たぬので、自ら決断し、それら神仏の像を時として破壊したり毀滅したのである。」 (同書p.215) 

そのコエリョの回答を聞いて、太閤がさらに激怒したことは当然である。
秀吉は「予は日本のいかなる地にも汝らが留まることを欲しない。ここ二十日以内に、日本中に分散している者どもを集合せしめ、日本の全諸国より退去せよ」と命じ、「伴天連追放令」と呼ばれる布告を司令官ドミンゴス・モンテイロに手交したのである。


<伴天連追放令>

コエリョは九州での奴隷売買を廃止させるために努力したというのだが、どこまで本気で努力したかは疑わしい。藤田みどりさんの「奴隷貿易が与えた極東への衝撃」という論文には、イエズス会日本準管区長のコエリョ自身がポルトガル商人に代わって日本人奴隷売買契約書に署名した事実が書かれているそうだ。

「伴天連追放令」の原文とは次の通りで、現代語訳はURLで読む事が出来るが、この時に手交した文書には、奴隷売買を禁止する条項は記されていないことがわかる。
ルイス・フロイスの「日本史」にも「伴天連追放令」の内容が書かれているが、やはり奴隷売買の事は書かれていない。
<原文>
一、日本ハ神国たる処きりしたん国より邪法を授候儀 太以不可然候事
一、其国郡之者を近付門徒になし 神社仏閣を打破之由 前代未聞候 国郡在所知行等給人に被下候儀は当座之事候。天下よりの御法度を相守、諸事可得其意処 下々として猥義曲事事
一、伴天連其知恵之法を以 心さし次第に檀那を持候と被思召候へは 如右日域之仏法を相破事曲事候条 伴天連儀日本之地ニハおかされ間敷候間 今日より廿日之間に用意仕可帰国候 其中に下々伴天連に不謂族(儀の誤りか)申懸もの在之ハ 曲事たるへき事
一、黒船之儀ハ 商買之事候間格別候之条 年月を経諸事売買いたすへき事
一、自今以後仏法のさまたけを不成輩ハ 商人之儀は不及申、いつれにてもきりしたん国より往還くるしからす候条 可成其意事
已上
天正十五年六月十九日 朱印

<現代語訳>
https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E3%83%90%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%B3%E8%BF%BD%E6%94%BE%E4%BB%A4_%E3%83%90%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%B3%E8%BF%BD%E6%94%BE%E4%BB%A4%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81

しかし、国内向けに出された「伴天連追放令」においては、寺社の破壊や奴隷売買を禁止する条項が書かれているようである。奴隷売買禁止に関しては原文では、
「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。 右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)
となっている。


<ルイス・フロイス像>

またルイス・フロイスがいみじくも書いているように、秀吉が九州に来た目的は島津と戦うことではなく、当初から高山右近や切支丹宣教師を追放することにあったと思われる。なぜなら、九州の戦いを終えても島津氏の領国はほとんど変わりなく安堵されているのはそう考えないことには理解できないからだ。

以上、やや長くなったが、秀吉を暴君と呼び悪魔と呼ぶイエズス会のルイス・フロイスが「伴天連追放令」をどう捉えたかについてまとめてみた。

「伴天連追放令」については秀吉の側近の記録が残され、外国人の書いた文章でも日本人奴隷の実態を書いている文書などもあるようだ。
文章が長くなるので次回以降に紹介することするが、秀吉がキリスト教の独善性と宣教師の野望に早い時期に気付きその拡大を許さなかったことが、この時期に日本が植民地にならず独立国を維持できた要因の一つだと思っている。
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BLOGariコメント

キリスト教は1神教で異教徒との融和を図らない原理主義的な宗教です。欧州は非寛容なキリスト教社会になっており、1000年以上、異教徒との戦争や魔女狩りや、異端裁判を繰り返してきました。

 宗教戦争の最中に、アジアや日本へ進出してきました。宣教師が侵略の先兵であったことを秀吉はいろんな情報から見抜いたのでしょう。

 欧州が1000年かかってようやくやりとげた、「政教分離」を織田信長は比叡山焼き討ちと一向一揆の撲滅によって、極めて短時間にやりとげました。

 江戸時代に仏教が檀家制度で経済的基盤を保障される代わりに、キリシタン狩の役目も与えたのではないでしょうか。

 仏教が現世の政治世界から分離され、葬式仏教になり、江戸時代に既に、日本人にとって宗教は「絶対」ではなくなりました。

 教会で結婚式を挙げ、葬式は仏式。初詣は神社へ行くd譜代多数の日本人の生活習慣の基礎は、秀吉の時代に形成されたと思います。
 
 
キリスト教徒からすれば、異教徒は家畜同然に考えていたのでしょう。彼等にとっては、キリストを信じない異教徒は駆逐されるべき存在であり、奴隷にすることも、虐殺することもそれほどの罪の意識はなかったと思われます。

聖書のレビ記25章には、異教徒を奴隷にして買うことも、財産として所有することも容認することが明確に書かれています。
http://www.bible.or.jp/read/aidoku.cgi?day=20110818

秀吉が、「伴天連追放令」を出してキリスト教と距離を置く政策を出したことは、結果として多くの日本人を救ったのだと思います。
 
 
 現在のエジプト情勢は、今後の世界史に与える影響が極めて大きいと思います。

 西欧のキリスト教国は、ムバラク大統領の独裁をやめて、民主化し、「親米・親イスラエル路線」の継続をのぞんでいます。

 しかしその政治信条は、多数のエジプト国民から遊離しています。イランの聖職者がエジプトの反政府運動を支持表明しました。

 彼らは反米・反イスラエルですから。エジプトの場合は宗教が政治を媒介しています。対応を誤れば、大変なことになるでしょう。

 エジプトが反米国家になれば、隣国サウジや湾岸諸国も吹っ飛びますね。イラクもアフガンもアメリカの思惑どうりに行かないです。

 イスラエルはますます先鋭化し、ますます不安定になります。嘆かわしいことです。

 野蛮な十字軍が時代が下って秀吉時代に日本へ来たのです。全く迷惑な話でした。

 秀吉は朝鮮に侵略するのではなく、マカオのキリスト教の拠点を攻撃し、アジアの人達をキリスト教の「魔の手」から解放すべきでした。そうなれば世の中も変わっていたことでしょう。
 
 
秀吉が朝鮮に出兵したのはバカなことだったという話を学生時代から何度か聞かされていましたが、最近になって、秀吉の朝鮮出兵を、日本が植民地化されないために必要であったと評価する説が結構出てきていることを知りました。そのこともいずれ、書きたいテーマの一つです。

キリストとイスラムという一神教は、他の価値観に対して寛容ではないために、過去もそうであったように今後も争いを繰り返すような気がします。

何度も争って血を流し戦うことに疲れた時に、いずれは価値観の違う他国の人々の文化や生活を尊重する時代が来るのかもしれませんが、あと何十年・何百年かかるかわかりませんね。
 
 
なるほど~。
そういうことだったのですね。
 
 
近くの図書館にて「絵で見る十字軍物語」(塩野七生・著・新潮社・2010年刊)を読みました。

 精密なキャスターバ・ドレの挿絵に描かれている十字軍の絵は、戦闘場面や異教徒の虐殺場面が多くおぞましい。

「神がそれを望まれている」と宣教師が煽動し、エルサレムの奪還を名目に、欧州各国の諸侯がパレスティナの地の侵略戦争に参加しました。

 戦闘でなくなれば天国へ行ける。異教徒は家畜以下であり、いくら殺害しても罪に問われない。よいことであると教会は言い続けました。

 侵略されたイスラム側も,ジハード(聖戦)を宣言し、双方の妥協のない戦争が200年も続きました。結果はキリスト勢力は敗退し、イスラムに圧倒されます。

 その歴史の下地があるために、アジアへ来た宣教師も戦闘的で侵略主義的であったのでしょう。野蛮な宗教から解放するために来たと宣教師は信じていました。

 ただ日本の先進性や国民の優秀さには腰を抜かしたといいます。当時から日本は「一筋縄ではいかない」国として欧州各国に認知されていたようですね。
 
 
西洋が世界を植民地化していた時代に日本は戦国時代であり、西洋に武力では負けない時代であったことは幸運でした。

以前紹介したフランシスコ・ザビエルもポルトガル神父に宛てて、「日本人はたいへん好戦的で強欲ですから、メキシコからたくさん船が来ても、すぐに捕獲してしまうでしょう。」と書いた書簡を送っています。

しかし、もし西洋が世界を植民地化していた時代が日本の平安時代だったら、日本は簡単に飲み込まれていたと思います。
また戦国時代にもし秀吉や家康のような人物がいなければ、西洋勢力と結託した切支丹大名に国が支配されて日本の文化・伝統が破壊されて西洋の植民地になり下がり、世界中がいまだに西洋の植民地であり続けていたかもしれませんね。
 




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