フランシスコ・ザビエルは天文18年(1549)8月15日に鹿児島に上陸して、日本に初めてキリスト教を伝えたポルトガルの宣教師である。
大正8年(1919)に大阪の茨木市の山奥にある千提寺の民家から、教科書でおなじみの聖フランシスコ・ザビエル画像が発見されたことは以前このブログの「隠れ切支丹の里」という記事で書いたことがある。
shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-109.html
こんな肖像画が出てきたのだから、ザビエルがこんな山奥にも来て布教していたのかと錯覚してしまうのだが、それはあり得ないことである。
この地域にキリスト教が拡がったのは、切支丹大名として有名な高山右近が高槻城主であった時代なのだが、右近が生まれたのが天文21年頃(1552)で、ザビエルが日本を去った翌年の事である。布教の許可もない中で、この山奥にザビエルが足跡を残すことはありえないことなのだ。この画像は江戸時代の初期に描かれたものと考えられている。
ところでザビエルが日本に滞在した期間は思いのほか短い。
ザビエルが日本を去ったのは天文20年(1551)11月15日で、日本に滞在したのはわずか2年3ヶ月のことだった。
この短い期間で、日本語を学びながら仏教国の日本でこれだけキリスト教を広めたことは凄いことだと思う。
岩波文庫の「聖フランシスコ・ザビエル書翰抄(下)」に、ザビエルが日本に滞在した時の記録が残されている。これ読むと、当時の日本での布教の様子や、当時の日本人をザビエルがどう観察していたかがわかって興味深い。
ザビエルは1549年11月5日付のゴアのイエズス会の会友宛の書簡で、鹿児島に上陸して二ヶ月半の段階で、日本人をこう観察している。
「…今日まで自ら見聞し得たことと、他の者の仲介によって識る事の出来た日本のことを、貴兄らに報告したい。先ず第一に、私達が今までの接触によって識ることのできた限りに於ては、此の国民は、私が遭遇した国民の中では、一番傑出している。私には、どの不信者国民も、日本人より優れている者はないと考えられる。日本人は総体的に、良い素質を有し、悪意がなく、交わって頗る感じが良い。彼らの名誉心は、特に強烈で、彼等にとっては、名誉が凡てである。日本人は大抵貧乏である。しかし、武士たると平民たるとを問わず、貧乏を恥辱だと思っている者は、一人もいない。…」(岩波文庫p.27)
と、日本人の優秀さを絶賛している。
<上の画像は鹿児島市のザビエル上陸記念碑>
キリスト教を布教するためには、日本人の仏教への信仰をとり崩していかなければならないのだが、ザビエルは当時の仏教の僧侶について、次のように記している。
「私は、一般の住民は、彼らが坊さんと呼ぶ僧侶よりは、悪習に染むこと少なく、理性に従うのを識った。坊さんは、自然が憎む罪を犯すことを好み、又それを自ら認め、否定しない。此のような坊さんの罪は、周知のことであり、また広く行われる習慣になっている故、男女、老若の区別なく、皆これを別に異ともせず、今更嫌悪する者もない。」
「自らが坊さんでない者は、私達が、この憎むべき悪習を、断固として罪だと主張する時、私達の言葉を喜んで聞く。かかる悪習が如何に非道であるか、又それが、如何に神の掟に反するものであるかを、強調する時、人々は皆私達に賛成する。…」(p.30)
と、この時期の僧侶には戒律を破り堕落している者が少なからずいて、そのことを一般民衆に話すと一般民衆は喜んで聞いたと書いている。
<上の画像はジンナロ編「東洋の使徒ザビエル伝」より>
またザビエルは、この日本でキリスト教布教する意気込みと、この布教が成功する可能性が高いことを次のように述べている。
「(僧侶も民衆も)皆、喜んで私と親しくなる。人々が非常に驚くのは私達が此の国民に神のことを告げ、救霊はイエズス・キリストを信ずるにあることを教えんがためにのみ、遥々六千レグア*の波濤を蹴立てて、ポルトガルから来朝したという事実である。私達の来朝は、神の命令に依ることだと私達は説明している。」(*1レグア=約6km)
「私がこれらのことを凡てお知らせするのは、諸兄から我らの主たる神に感謝して頂きたいためであり、更に島国日本は、私達の聖なる信仰の弘布に、非常に優れた条件を具備していることを報告したいからである。若し私達が日本語に堪能であるならば、多数の者が、キリストへの聖教に帰信するようになることは、絶対に疑いをいれない。」(p.30)
と、日本語さえ習得すればキリスト教を日本に広める事ができると書き、その上で、
「貴兄等は、準備をしていただきたい。二年も経過しないうちに、貴兄等の一団を、日本に招くことは、有り得ることだからである。謙遜の徳を身につけるように、励んで頂きたい。…」(p.31)
と、二年以内にキリスト教を広めていく自信があることを伝えているのだが、ザビエルはこの手紙を書いた丁度2年後に日本を去っているのだ。これはどう解釈すればいいのだろうか。
ザビエルにとって、この後の布教活動で満足な結果が出せたのだろうか、出せなかったのだろうか。
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BLOGariコメント
信長ー秀吉時代になると、一向一揆や石山本願寺を制圧しますと、対抗勢力としてのキリスト教徒の利用価値が下がったこともあると思います。
それに当時の国際情勢を知らなかったはずは無く、東南アジア方面でのスペインやポルトガルの悪行の数々は秀吉などの耳にも入っていたと思います。
ザビエルさんも戦国時代の日本へ入ってきて、展望を見たとは思いますが、他のアジア諸国のようにはいきませんでした。
信仰の自由が保証された現在の日本でも、キリスト教徒は人口の1%程度です。
日本人の気質として、1神教は流行しないと思います。共産主義も一時期流行しましたが、定着しませんでした。
八百万の神の日本人の感性は、優れものであると感心しています。異質なものを排除しない姿勢は必要です。
ただ秀吉時代のキリスト教は侵略の先兵でした。結果的に秀吉は良い選択をしたと私は思います。
サンフェリペ号事件の前に伴天連追放令が出ていますが、その背景については秀吉の側近の記録では、日本人が奴隷として売られていた事実を知って秀吉が激怒したということが書かれているようです。
信徒を奪われる立場の仏教僧侶からも相当な情報が秀吉に伝えられていたはずで、秀吉もスペインやポルトガルの悪行は認識していたと考えています。
ただ、ザビエルの本を読んでいると、当時の日本の仏教界には腐敗した部分が少なからずあったようで、キリスト教を民衆が受け容れて広まっていく余地は、それなりにあったと思っています。