しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その3

2011年02月13日 | 大航海時代の西洋と日本

戦国時代の九州で、なぜ大量の日本人がポルトガル商人に奴隷として売られてしまったのか。

この点については、前々回紹介したルイス・フロイスが、その当時の九州の実態について、「奴隷」という言葉こそ使っていないがその事情が理解できるような記録を残している。

イエズス会士とフランシスコ会士

たとえば、豊後については薩摩軍との戦いが続いて惨憺たる状況であった上に、次の様なことが起こっていた。フロイスの記録をしばらく引用する。

「薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態になったから、買い取った連中まで養えるわけがなく、彼らはまるで家畜のように高来(タカク:島原半島)に連れて行かれた。かくて三会(ミエ)や島原の地では、時に四十名が一まとめにされて売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった。」(「完訳フロイス日本史8」中公文庫p.268)…1588年の記述

「豊後の国の全領民は次のように三分された。その第一集団は、戦争のために死亡し、第二集団は、敵の捕虜となって薩摩や肥後に連行されたのち、羊の群れのように市場を廻り歩かされたあげく売られていった。彼らの多くは、二束三文の安価で売却された。第三の集団は、疾病や飢餓のために極度の貧困に陥って人間の容貌を備えていないほどであった。彼らは互いに殺し略奪し合っていた。」(同書p.314)…1589年

フロイスは日本の戦国時代末期の三十年以上を九州や畿内で暮らした人物であり、誰が売ったかという点について記述している内容はかなり信頼できると考えて良いだろう。豊後とは今の大分県で、肥後とは今の熊本県と考えて良いが、太閤検地の頃の豊後国の人口は418千人であるから、フロイスが「おびただしかった」と書いた、島原まで連行された豊後の婦人や男女の子供たちの数がどれくらいの数字になるかは、人によってイメージする数字が異なるだろうが、人口の5%~10%と考えても20~40千人という数字になってしまう。



フロイスは口を閉ざして語らないが、それらの人々の多くが島原でポルトガル商人に奴隷として売られていったと考えてまず間違いないだろう。
島原半島の南にある口の津は南蛮貿易の拠点であった港で、口の津の約10km東に原城があり、そこに爆薬に使われる硝石の集積場があった。硝石(硝酸カリウム)は爆弾を製造するに不可欠な原料なのだが、湿潤気候の日本国内では天然に産出しないため当初は南蛮貿易で入手するしかなかった。それを入手するための対価のかなりの部分が、奴隷を売ることによって作られたと考えられている。

硝石の価格について、以前Wikipediaには「バチカンにある過去の日本の記録には、アフリカ人奴隷に掘らせたチリの硝石1樽で日本人女性が50人買える」と書かれていたが、今はその部分は削除されている。同様の記述はネットで多くの人が書いているが、バチカンの記録の原典を引用しているものはなく、どこまでこの記述が信頼できるのかは良くわからない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1
もっとも、フロイスの記述のとおりに日本人がよほど安価で売られていたなら、その可能性が考えられないわけでもないが…。



口の津のある島原半島は、当時切支丹大名の有馬晴信の領地であった。結局この硝石は後に島原の乱で天草四郎が江戸幕府軍との戦いで使われることになる。原城に立て籠った天草四郎らの反乱軍が長らく持ちこたえられた理由は、キリスト教の信仰もあったのだろうが軍事力の観点からすれば、貯め込んだ大量の火薬の存在を無視できないのだと思う。

日本人奴隷を買ったポルトガル商人がいて、またポルトガル商人に売った有馬晴信に近い商人がいる。しかしその商人に売るために、はるばる島原にまで住民を連行して行った人間集団はどういう連中なのか。どこかの藩の正規軍なのか。

立教大学名誉教授藤木久志氏が著した「雑兵たちの戦場」(朝日新聞出版)という本を読むと、この時代を読み解くうえで「雑兵(ぞうひょう)たちの戦場」という視点が極めて重要であることを痛感させられる。

「雑兵(ぞうひょう)」とは武士に奉公する「足軽」や、足軽より身分が低く戦場で馬をひいたり槍を持つ「下人」や、村々から駆り出されて物を運ぶ「百姓」などの総称で、戦国大名の軍隊は、騎馬姿の武士はせいぜい1割程度で、残りの9割は「雑兵」であったそうだ。

「凶作と飢饉のあいついだ戦国の世、懸命に耕しても食えない人々は傭兵になって戦場へ行った。戦場に行って、わずかな食物や家財や男女を奪い、そのささやかな稼ぎで、なんとか冬を生き抜こう。そんな雑兵たちにとって、飢えに見舞われる冬から夏の端境期の戦争は、たったひとつのせつない稼ぎ場であった。そこには、村にいても食えない二、三男坊もゴロツキも悪党も、山賊海賊や商人たちも殺到して、活躍した。戦場にくり広げられた濫妨狼藉、つまり掠奪・暴行というのは『食うための戦争』でもあったようだ。」(「雑兵たちの戦場p.7」) 

雑兵たちは、懸命に戦っても恩賞があるわけではない。彼らを軍隊につなぎとめて作戦に利用しようとすれば、ある程度の掠奪や暴行を許容する武将が多く、フロイスが詳細に記述した薩摩のほかにも全国各地で同様な記録が残されている。
人を奪うケースの多くは身代金目当てで行われていて、「雑兵たちの戦場」にはそのような記録が数多く紹介されている。

例えば甲斐国の年代記である「勝山記」という書物には、武田信玄軍に生け捕られて甲府へ連れ去られた男女のうち「身類(親類)アル人」は二~十貫文ほどの身代金で買い戻されていたという記述があるそうだ。(一貫文=1000文) 

また、永禄九年(1566)に小田氏治の常陸小田城が長尾景虎(上杉謙信)に攻められて落城すると、城下はたちまち人を売り買いする市場に一変し、景虎自身の指図で、春の二月から三月にかけて二十~三十文ほどの売値で、人が売られたという記録があるそうだ。折から東国はその前の年から深刻な飢饉に襲われており、時代や地域によってその価格は異なる。

本州や四国での人身売買については海外に売られていくことはなかったのだろうが、九州で分捕られた場合は、親族の引き取りがなければ安値で海外に売られていくルートが存在した。
薩摩軍が分捕った人の売値は、フロイスの記録では、飢饉の時代とは言え「二束三文」でタダ同然だった。

この時期の貨幣価値については、永禄2年(1559)相模国の北条氏康に納められていた魚の価格が鰯二匹が1文、大あじが2文、鯛6~7寸で10文、1尺で15文といった記録があるが、九州では魚と変わらない価格で人間が取引されていたのだろうか。
http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J020.htm

私自身が最近までイメージしていた戦国時代は、英雄と英雄との戦いであり武士の世界でしか見てこなかったのだが、藤木久志氏の「雑兵たちの戦場」を読んで、今までの戦国時代の見方は歴史の表面だけを見ていただけだということに気がついた。この時代に興味のある方は是非お勧めしたい本である。



ところで、このような濫妨狼藉による人身売買を禁止したのも豊臣秀吉なのである。
前々回に「伴天連追放令」国内向けの条文の中に人身売買の禁止が明記されていることを書いたが、①人の売り買いはすべて停止せよ。②去る天正16年以降の人の売買は破棄する③だから買い取った人は元へ返せ④以後は、人の売買はともに違法だという趣旨の命令を、相次いで全国に秀吉が出している。

秀吉がただ全国を統一しただけで、平和な世の中になるのではなかった。このような人身売買を固く禁じてはじめて、人々が安心して暮らせる社会が実現できたのだと思う。

しかし秀吉の命令も、残念ながら東国までには行き渡らなかった。「大坂夏の陣図屏風」の左半分には徳川軍の雑兵が大阪城下の民衆に襲いかかる現場が描かれている。


<大阪夏の陣図屏風(部分)>

秀吉のやったことは正しかった。東国には人身売買の禁止を徹底できなかったが、秀吉は権力を握った者にしかできないことを適切に実施し、九州で日本人が奴隷として海外に流出していくのを止め、日本が植民地化していく危機を救ったと評価できるのではないか。
もし秀吉が南蛮貿易の利権を選択して、キリスト教を保護し、雑兵の濫妨狼藉を放任し日本人奴隷の海外流出も放置するような馬鹿な男であれば、今の日本がキリスト教国で白人が支配する社会になっていてもおかしくなかったと思う。

信長、秀吉、家康の3人の中で昔から秀吉が庶民から最も親しまれてきた存在であるのは、下層階級の出身でありながら全国を統一したということもあるだろうが、庶民が一番嫌う人身売買と言う悪弊を断ち切って、誰もが安心して暮らせる平和な社会を実現させる道を開いたということも、庶民から評価されてきた要因の一つではないかと考えている。
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BLOGariコメント

しばやんさん渾身のレポートです!凄いです!

 なるほど人身売買、雑兵の戦国史という観点も必要ですね。

 今年の大河ドラマ「江」にも野武士という形で出てきて、明智光秀さんは手やりで落ち武者狩りの雑兵に討たれます。

 九州を中心にした人身売買。それとキリスト教国。秀吉の存在とキリスト教の禁教の理由。なるほどそうでしたか。

 「世界観」が変るレポートでした。ありがとうございました。
 
 
過分なお言葉をいただき、有難うございます。

ちょっと重たいテーマをやっと書きあげて、肩の荷がおりたような気持ちです。

去年からずっと秀吉の「伴天連追放令」が気になっていて、買った側の事情や日本人奴隷の実態はわかっても、売る側の事情が今まで腑に落ちませんでした。

フロイスの「日本史」と藤木さんの「雑兵たちの戦場」を読んで、自分としては日本人奴隷が売られた流れを理解したつもりなのですが、今まで学んできた歴史では、私のような素人が原典を調べればわかるような事がずっと長い間封印されてきているように思います。

おそらく、西洋の暗部を記述し、多くの日本人に知らしめることはよろしくないと考える事情が、国内に未だに存在するのだと思いますが、日本人奴隷の問題を抜きにして、秀吉の「伴天連追放令」やキリスト教の弾圧は理解できないと思いますし、全国を統一したことの意義も理解できないと思います。

こんなブログを書き始めていなければ、私もここまで調べることはなかったと思いますが、私も今回の3回の記事を書きながら戦国時代を見る眼が変わりました。

 本当に粘り強く調査されておられます。その姿勢に敬服いたします。

>おそらく、西洋の暗部を記述し、多くの日本人に知らしめることはよろしくないと考える事情が、国内に未だに存在するのだと思いますが、日本人奴隷の問題を抜きにして、秀吉の「伴天連追放令」やキリスト教の弾圧は理解できないと思いますし、全国を統一したことの意義も理解できないと思います。

 敗戦後にGHQが焚書をし、言論統制をしていた意味は、共産主義の弾圧だけではなかったんですね。それがよく理解できました。

 むしろ当時の左翼の連中のほうが、「西洋史観」「日本悪者説」を振り回しておりましたから。ばかげたことでした。

 歴史の再検証が本当に必要であることをしばやんさんに思い知らされました。
 
 
実はGHQは左翼の本を殆ど焚書扱いにしていません。宮本百合子、堺利彦、野坂参三、尾崎秀実、河上肇、滝川幸辰、美濃部達吉、横田喜三郎、大内兵衛は一冊も焚書になっていないのです。

GHQの思想統制のターゲットは左翼にあったのではなく、また右翼だけが対象になったわけでもなく、西洋の世界侵略の実態を書いた本や、日本の良さを書いたような地味な本が、かなり焚書対象になっているようです。

この時に焚書になった本を何冊か手に入れましたが、結構面白い本があります。GHQの思想統制の目的は、日本人の洗脳、すなわち、二度とアメリカやキリスト教国と闘わないために、徹底して「西洋は正しく、日本が犯罪を犯した」と信じさせることにあったのだと考えています。今の教科書も、マスコミの論調も、すべてその観点で過去が語られるようになっていますが、これでは国や郷土を愛する気持ちが育つはずがありません。

これからはそのような考え方から解放されて、もっと自由に歴史を語ることが必要だと思います。
 
 
>これからはそのような考え方から解放されて、もっと自由に歴史を語ることが必要だと思います。

しばやんさんのご指摘で新たな観点が得られました。

 私自身高校生時代からの「宿題」を抱えています。
それは「連合赤軍と新自由主義の総括」というテーマです。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/cat21222778/index.html

 いままでは社会運動面と社会思想面での検証ばかりしてきました。半分ぐらいは解明しましたが、今ひとつでした。

 歴史的な観点と宗教的な観点が必要ではないのか。しばやんさんのレポートでそれに気づかされました。

 つまり極端な共産主義思想も、凶暴な金融資本主義も、ベースに独善的な1神教としてのキリスト教世界観の毒が盛られているのではないのか。ということです。

 他者や異論を一切認めない。自分たち以外はすべて敵であり、いくら殺害しても罪に問われない。服従したものはドレイにしてもかまわないという思想。

 まさにアジア侵略してきたキリスト教のやってきたことと同じではありませんか。そう思います。

 「日米同盟だ」「米海兵隊は抑止力で沖縄駐留が不可欠」とかいう論理が、アメリカー官僚ー大手マスコミが三位一体となって世論を形成していて独自の日本の国益や国防を考えられないのも、これは一種の「洗脳」であると思います。

 しばやんさんのとりくまれている「キリシタン禁令」の歴史の総括に、「西欧信仰」の洗脳を脱却する鍵があるように思います。
 
 
解答になるかどうかわかりませんが、「共生」という考え方がどこか欠落した宗教や思想が世界で支配的になっているところからさまざまな問題が派生しているような気がしています。

世の中にある様々な信仰や考え方を許容し、その違いを乗り越えて共存共栄をはかるようにできないものでしょうか。
日本人が自国の歴史に自信を持って、そのような考え方で世界のリーダーシップを取る時代が来て欲しいものです。

「洗脳」を解く鍵は私も、西洋信仰に疑問を持つことと、日本の歴史を見直すことにあると考えています。
 
 
 最近の鳩山由紀夫前首相の「海兵隊抑止力・方便論」で、関係者がえらい怒っています。

 そのなかで沖縄タイムズの社説はとても冷静で、歴史的な観点から解説していました。

 「[「抑止力は方便」]これが前首相の発言?」

http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-02-14_14545/

 長いですが論説を以下に引用します。

 「最低でも県外」「常時駐留なき安保」「対等な日米関係」「政治主導」。いずれも鳩山氏の政治家としての信念に根ざした主張だった。

 実行に移そうとすれば、米国との摩擦、官僚との摩擦は避けられない。

 鳩山前首相はその備えもないまま米国や官僚と相まみえ、壁にぶつかっては跳ね返され、閣内をまとめることもできず、迷走を続けた。

 鳩山政権の動きに警戒感を募らせた米国は硬軟織り交ぜ、さまざまな圧力を新政権にかけた。

 全国紙の米国特派員は「米国が怒っている」という類いの記事を流し続けた。外務省や防衛省の官僚は非協力的だった。

 「鳩山の失敗」に身震いした菅直人首相は、米国にも官僚にも逆らわず政権を長続きさせるという道を選んだ。政権交代時に掲げた理念の大幅な後退である。

 2009年9月に鳩山首相が誕生してから今日に至るまで、普天間問題の節目節目に浮かんだ言葉がある。

 西郷隆盛と西南戦争について取り上げた「丁丑(ていちゅう)公論」の中で福沢諭吉は「新聞記者は政府の飼犬に似たり」と指摘した。

 政治学者の丸山真男は、日本の新聞社の「政治部」について「『政界部』というふうに直した方がいい」と批判した。

 大ざっぱな言い方をすれば、米国と官僚と全国メディアは鳩山政権誕生以来、三位一体の連携で辺野古移設を主張してきた、といえるのではないか。鳩山前首相はこの強固な壁に押しつぶされ、あえなく「憤死」したのだ。
 
 
 続きです。


 総理の強いリーダーシップと閣内の結束、党内の一致協力があれば、状況は変わったかもしれない。」とあります。

 感情的な反発(琉球新報はそうでした)よりも、歴史的背景や政治的なバランスを読んでコメントした沖縄タイムズの記事は秀品です。

 沖縄が「戦略的に重要である」と真剣に1番思っていたのはアメリカでした。ペリーの時代から軍事占領を考えていましたから。2ヶ月に渡り沖縄全島の測量までしていましたから。

 沖縄を軽視したのは旧日本帝国でした。陸上兵力や、航空兵力を台湾へ避難させ、劣悪な装備で米軍に対抗しようとしたのです。それは沖縄の民間人を巻き込んでしまう作戦でした。

 鳩山氏はその沖縄への思いがあったんでしょう。少なくとも「三位一体」グループのように沖縄に米軍基地を固定化するには反対していましたから。

 日本人は、国際情勢(尖閣・沖縄・朝鮮・竹島・北方領土)と向き合うためには、正確な歴史を知ることです。

 そのためにはしばやんさんご指摘の{GHQ史観」の克服、洗脳史観からの解脱が日本人各位には必要なのです。
 
 
鳩山さんは、代替案も固めず、アメリカとの調整もできていないのにに「最低でも県外」と言うのは政治家としてセンスがなさすぎますね。アメリカに国防を委ねる姿勢のままで、アメリカと対等の関係を構築できると考えるのも外交センスを疑います。

口先だけでは政治はできません。言ったことに責任を持ってもらわなければ、政治家として落第です。

好むと好まざるにかかわらず、いずれは自国は自らで守る気慨が必要です。その覚悟のない国に、アメリカの機嫌をとっていれば困った時に米軍が助けてくれると考えるのも幻想のように思います。その幻想を持ち続けるために、どれだけの富をアメリカに貢いでいるかと思うとぞっとします。

秀吉が今の政治家よりもはるかに外交力を発揮できたのは、つまるところ、以前鉄砲の記事で書いたように、日本の武器に優位性があり、武力が海外よりも勝っていたからだと思います。
西洋が世界を侵略していた時代がもし日本の平安時代だったら、日本はこの時に白人が支配する国になっていてもおかしくなかったと考えています。
 





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