しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事~~その2

2011年01月26日 | 大航海時代の西洋と日本

前回はザビエルが鹿児島に上陸して二ヶ月半たった時点で、ゴアのイエズス会会友宛てに日本人の印象などを書き送った書簡の一部を紹介した。今回はザビエルの日本での活動を追ってみよう。



ザビエル(画像)はゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人とともにジャンク船に乗ってゴアを出発し、1549年8月15日に鹿児島に上陸した。そして翌月には薩摩の守護大名・島津貴久(画像)に謁見し、キリスト教宣教の許可を得ている。


前回紹介した書簡ではザビエルが日本の布教が成功することを確信していたような文章であったのは、わずか1ヶ月で薩摩の布教許可が得られたことで自信を深めたものだと考えられるが、その後島津貴久はキリスト教を禁止してしまう。

ザビエルは薩摩がキリスト教を禁止した経緯をこう書いている。この書簡の中のパウロと言う人物はヤジロウのことである。

「…私達は前にも言った通り、先づパウロの故郷に着いた。この国は鹿児島という。パウロが同胞の人々に熱心に語り聞かせたお陰で、殆ど百名にも及ぶ日本人が洗礼を受けた。もし坊さんが邪魔をしなかったら、他の凡ての住民も、信者となったに違いないのである。」(「聖フランシスコ・ザビエル書翰抄(下)」岩波文庫p.100) 

「私達は一年以上もこの地方にいた。…坊さんはこの領主に迫り、若し領民が神の教に服することを許されるならば。領主は神社仏閣や、それに所属する土地や山林を、みな失うようになるだろうと言った。何故かと言えば、神の教は、彼らの教とは正反対であるし、領民が信者となると古来から祖師に捧げられてきた尊敬が、消失するからだという。こうして遂に坊さんは、領主の説得に成功し、その領内に於て、キリスト教に帰依する者は、死罪に処すという規定を作らせた。また領主は、その通りに、誰も信者になってはならぬと命令した。」(同p.101) 

「…日本人は特に賢明であり、理性的な国民である。それで彼らが全部信者にならないのは、領主に対する怖れの結果であって、神の教が真理であることの解らないためでもなく、また自分の宗旨の間違っていることに気のつかないためでもない。」(同p.101-102) 

かくしてザビエル一行は一年間活動した鹿児島を去り、1550年8月に肥前平戸に入って宣教活動を行った。そこではわずか二か月で住民の数百名が信者になったので、ここの信者の世話をトーレス神父に託して、別の地域を目指すこととした。

周防山口では大名・大内義隆にも謁見したがその時はさしたる成果がなく、次に都である京都に進んで、インド総督とゴアの司教の親書をもって、全国での宣教の許可を得るために、御奈良天皇に謁見しようと試みたがそれは叶わなかった。

当時の京都は応仁の乱以降打ち続いた戦乱の結果多くが破壊されており、布教する環境にないと判断して、一行は再び山口に入る。

山口でザビエルは、天皇に捧呈しようと用意していた親書のほか、珍しい西洋の文物の献上品を用意して、再び大内義隆(画像)に謁見したという。


大内義隆は大層喜び、お礼のしるしとして金銀をザビエル一行に差し出したが、これをザビエルは受け取らずにキリスト教の布教の許可を願い出たという。

「…私達は、そのもっとも渇望している唯一つのことを願い出た。即ち、私達がこの領内に於て、神の教を公に宣布することと、領主の民の中に、信者になることを望む者があった場合には、自由に信者になれることを、私達に許可して頂きたいというのである。これに就いては、領主は、凡ゆる好意を持って私達に許可を与えた。それから、町の諸所に、領主の名の記された布令を掲出させた。それには、領内に於て神の教の説かれることは、領主の喜びとするところであり、信者になることは、各人の自由たるべきことと書かれていた。同時に領主は、一つの寺院を私たちの住居として与えた。…」(同p.105) 

大内義隆がザビエル一行に与えた寺は、当時すでに廃寺となっていた大道寺という寺だそうだが、ザビエルはこの寺で毎日二度の説教を行い、約二か月の宣教で洗礼を受けて信徒となった者は約500人にものぼったそうである。

山口の布教が順調に進んでいる中で、豊後府内(大分市)にポルトガル船が来着したとの話があり、豊後の大名である大友義鎮(後の大友宗麟:画像)からザビエルに会いたいとの書状が届き、1551年9月にザビエルは山口の宣教をトーレス神父に託して自分は豊後に向かう。豊後に於いてもキリスト教は宗麟の保護を受けて広まっていった。



岩波文庫の解説によると、ザビエルの2年半日本滞在の間での洗礼者は千名には及ばなかったという。(鹿児島100-150名、市来15-20名、平戸180名、山口に向かう途中で3名、山口500-600名、豊後30-50名) 
ザビエルはインドのトラヴァンコル地方に於いては1ヶ月に1万人の信者を作った実績がある。日本での成果はザビエルが当初思い描いていた数字には大きく届かなかったはずだ。

ザビエルは日本全土の布教のためには、日本の文化に大きな影響を与えてきた中国での宣教が不可欠だと考えた。ザビエルは、こう書いている。

「…シナに行くつもりだ。何故なら、これが日本とシナとに於て、我が主の大いなる奉仕になるだろうと思うからである。というのは、シナ人が神の掟を受入れたと識るなら、日本人は自分の宗旨に対する信仰を、間もなく、失ってしまうだろうと考えられるからである。私は、我がイエズス会の努力によって、シナ人も、日本人も、偶像を捨て去り、神であり全人類の救主なるイエズス・キリストを拝するようになるという、大きな希望を持っている。」(同p.137) 

1551年11月15日にポルトガル船で日本を離れ、一旦ゴアに帰り自分の代わりに日本で宣教するメンバーの人選をして、自らは中国に向かおうとしたがマラッカで中国への渡航を妨害され、ようやく三州島に着くも、そこでは中国入国の手助けをする船は約束した日には現れなかった。



(「ザビエルの死」ゴヤ画)

ザビエルはそこで熱病に罹り、中国本土で布教の夢が果たせぬまま、1552年12月3日に、イエズスの聖名を呼び奉りつつ息絶えたという。

なぜザビエルのような優秀な宣教師をもってしても、日本の布教が遅々として進まなかったのか。当時の日本人はザビエルの話を理解しつつもどうしても納得できないところがあったのではないか。

私は、ザビエル書簡の中でこの部分に注目したい。

「日本の信者には、一つの悲嘆がある。それは私達が教えること、即ち地獄へ堕ちた人は、最早全然救われないことを、非常に悲しむのである。亡くなった両親をはじめ、妻子や祖先への愛の故に、彼らの悲しんでいる様子は、非常に哀れである。死んだ人のために、大勢の者が泣く。そして私に、或いは施與、或いは祈りを以て、死んだ人を助ける方法はないだろうかとたづねる。私は助ける方法はないと答えるばかりである。」(同p.119-120) 

「この悲嘆は、頗る大きい。けれども私は、彼等が自分の救霊を忽がせにしないように、又彼等が祖先と共に、永劫の苦しみの処へは堕ちないようにと望んでいるから、彼等の悲嘆については別に悲しく思わない。しかし、何故神は地獄の人を救うことができないか、とか、なぜいつまでも地獄にいなければならないのか、というような質問が出るので、私は彼等の満足のいくまで答える。彼等は、自分の祖先が救われないことを知ると、泣くことを已めない。私がこんなに愛している友人達が、手の施しのようのないことについて泣いているのを見て、私も悲しくなってくる。」(同P.120) 

当時の日本人が、キリスト教を受け入れがたいと思った重要なポイントがこの辺にあったのではないだろうか。自分の祖先がキリスト教を信じていなかったという理由でみんな地獄へ落ちると言われては、自分の祖先を大切に思う日本人の大半が入信できなかったことは私には当然のことのように思える。

もしザビエルが健康な状態で無事に中国に辿り着き、中国でキリスト教の布教に尽力してある程度の成功を収める事ができたとしよう。その場合にザビエルが再び日本に戻ってキリスト教の布教に成功できたかどうか。

皆さんはどう思われますか。

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BLOGariコメント

 やはりしばやんさんが書かれているように、恐ろしき、おぞましい地獄観では、日本人の感性にはなじまないでしょう。

 日々の生活で絶望的な生活を過ごすことの多い庶民大衆にとっては、死んだら極楽へいけると言われたほうが励みになります。

 「善人なおもて往生す。いわんや悪人をや」と言われるほうが説得力があったと思います。

 キリスト教の排他的、独善的な世界観が日本人にはなじまないと思います。
 
 
ザビエルからすればキリスト教の教えがすべてですから、そう説明するより仕方がなかったのでしょうが、その考え方が日本人の感性には合わないということには考えが及ばなかったように思います。

私もキリスト教の排他的・独善的な世界観が、日本人にはなじまなかったのではないかと考えています。
 
 
輪廻転生というのでしょうか、生老病死という考え方を仏教ではするのではないのでしょうか。

 たまにキリスト教の葬式に行きまして、牧師の説教を聴きましても、すべて聖書の引用と解釈にすぎません。面白くもなんともないのです。

 祖母宅にあった振り仮名をふってあった」お経のほうが読んでいて面白いと感じていました。

 異教徒に対して寛容さの無い宗教は、日本では広まらないと思います。

 100年前に高知出身の幸徳秋水らが大逆事件で処刑され、韓国が日本い併合されました。

 それ以後日本はいわば1神教の「神の国」になりましたが、末路は悲惨な敗戦であり、国土は焦土になりました。やはり日本には1神教はなじまないのです。

 キリスト教の習慣では、クリスマスだけが定着しました。あとはバレンタイン・デーでしょうか。いずれも菓子メーカーの戦略なんでしょう。

 僧侶の子息で、仏教大学へ進学し、跡継ぎになった同級生は、バレンタインで義理チョコをもらって喜んでいましたから。

「お前は異教徒の習慣でチョコレートもらっておかしいとおもわないのか」と言いますと、

「そんなもん関係ない。嬉しいからいいんだ。」と彼は言いました。今は念仏系のお寺の住職です。

 年末にはクリスマスケーキを食べ、大晦日にはお寺に参拝。年始には神社へ初詣する普通の日本人。

 その姿をサビエルさんがみたら、「なんとおぞましき日本人」と思われることなのでしょう。

 「ええとこどり」する日本人こそ、今後の世界をリードできる民族であると私は思います。
 
 
私の実家がお寺であることは何度か書きましたが、私の子供の頃もクリスマスの日に子供のために父が枕元にこっそりプレゼントを置いてくれました。
父に直接聞いたことはありませんが、友達がみんなプレゼントを貰っているのに、自分の子供だけがみじめな思いをさせたくないという親の気持ちだったと思っています。

バレンタインデーには私も義理チョコを貰って喜んだクチでした。そういういい加減さは私だけではなくて、日本人全体が異文化に対して寛容なところがあり、結構うまく取り込んで楽しんでいるようなところがあるように思います。

その一方で、キリスト教国は異教徒の文化をほとんど自国に取りこんでいないのではないでしょうか。

また私も、キリスト教の牧師さんの説教を若いころに何度か聞いたことがありますが、私もけんちゃんさんと同様な印象を持ちました。牧師のレベルに問題があったのかもしれませんが、若い頃の私の心に感動を与えるどころか欠伸が出るような内容でした。

そういえば、中国のマカオへ行ったときも、ザビエルの遺跡があったような記憶があります。(随分前に行きましたのであいまいなんですが)

 ザビエルのキリスト教はインドでの布教の成果はどうだっあんでしょうか?

 インドも多神教のヒンズー教が優勢な国のようですから。ザビエル以後か、その前かわかりませんが、イスラム教がはいってきて、結果国が分裂することにもなりました。

 韓国でもキリスト教の信者が30%はおられるとか。日本は1%程度。つくづく日本はユニークな国であると関心しています。

 21世紀をリードするのは、アメリカと中国ではなく、日本とインドのような気がするのです。
 
 
記事にも書きましたが、ザビエルはインドのトラヴァンコル地方に於いては1ヶ月に1万人の信者を作った実績があるとのことですので、日本よりかははるかにイエズス会は布教の成果を挙げていたはずです。

今のインドは78%がヒンドゥー教でイスラム教が13.4%、キリスト教徒は2%程度なのだそうです。

21世紀のリーダーがどこになるかは正直なところ良くわかりませんが、アメリカや中国が自分の価値観を押し付けて世界をリードすることが難しくなるのではないかと考えています。
 
 
おじゃまします
ザビエルに関して詳しくは知りませんが、堺にザビエル公園がありますね。あれはザビエルの公園。ということは堺にも来たのでしょうか?
アメリカの飛行学校で教官が同じだったスペイン人にXavierという男性がいて(ザビエと呼んでいました)「大阪の堺にザビエル公園がある。日本に来た有名なキリスト教の宣教師の名前の公園だけど、あなたと何か関係あるのかな?」って聞いたら、「多分その公園は有名な宣教師の名前から来たんだと思う。そして僕の名前もその人から来た。だいたいスペイン人特にバスク人は、みんな有名な宣教師の名前から名前をもらう。」ということでした。ずっと後で調べたら、ザビエルもやはり彼が言ったようにバスク人でした。バスク語と日本語は言葉が似ていると聞いたこともあります。ザビエルだけが有名なのも日本とバスク、何か深い関係があるのかもしれませんね。
その学校にはもうひとりマドリッド出身のスペイン人も来ていて、彼の名前はズバリ「ジーザス」と書きます。スペイン語ではジーザスをヘシウスと発音し、ジーザスと英語読みせず「ヘシウス」と呼んでいました。それにしても大胆な名前ですね。珍しい名前でもないらしくて、大胆なスペインと奥ゆかしいバスクの違いを感じました。


あまり詳しいことは知らないのですが、1550年の12月に堺の豪商であった日比谷了慶が屋敷でザビエルを手厚くもてなしたと言われています。公園は了慶の屋敷跡に作られたようですね。

フランシスコ・ザゴエルがバスク人ということは、Bruxellesさんのコメントで初めて知りました。
「ザビエル」はバスク語で「新しい家」という意味だそうです。

貴重な情報をありがとうございました。
 
 
お返事ありがとうございました。
堺という町は、キリスト教、茶の湯、そして大富豪たち、この3点から見直す必要があると感じました。
マドリッド出身のスペイン人に関しては、瞬間的な記憶の出し間違いで、ヘシウスではなく、ヘススでした。訂正させていただきます。何か湿気た線香花火のような音だと思ったことを思い出しました。フランス語ではイエス・キリストはジェズュクリ、音的には小さな甘いお菓子のような感じでしょう?ジーザスが一番かっこいいですね。
wikipediaによりますと「イエスは、イエースース(古典ギリシア語再建音)の慣用的日本語表記である。現代ギリシア語ではイイススとなる。」とありました。慣れているからいいものの、英米人が聞けば、「はい」ですからイメージの狂う音なんでしょうね。昔のクリスチャン、私の祖母などが言うとイが消えて「エス様」に聞こえました。
名前の持つ音と実態とは元々関係んないんでしょうね。そこに存在する山は、山と呼ばれようが、マウンティンと呼ばれようが、そこに存在する事実の前では、何の関係もないようにね。しかし現実では、言葉、付けられた名前、その音、によってほとんど実態やイメージが決してしまいますね。
言葉というのは、混沌とした世界を引き寄せて論理を持って秩序だてるための人間の武器だとは思いますが、言葉から見れば人間はまだ猿なのかもしれませんね。
ごめんなさい、話がそれてしまいました。キリスト教がもし受け入れられていたらどうなっていたでしょうね。ふと思ったのですが天守閣(天主閣)という言葉、恐れを知らない言葉ですね。


堺には他には大きな古墳も数多く々ありますね。充分観光資源があるのですが、あまり観光者が訪れません。
堺市の取組み方に工夫が足りないのでしょうか。
昔、キリスト教の神父の話を聞いたことがありますが、キリストのことを「イエズス・キリスト」と呼んでいました。いろんな呼び方があるようです。


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