裏磐梯・会津若松旅行の続きです。今回が最終回です。
飯盛山のさざえ堂を訪れた後は車で移動して、会津若松のシンボル、鶴ヶ城に向かいました。駐車場に車を停めて、お昼は鶴ヶ城の近くで喜多方ラーメンをいただくことにしました。喜多方ラーメン 喜鈴 (きりん) 城前店です。
喜多方の蔵を模したような外観で、広々としたきれいなお店でした。ラーメンは、黄金醤油、貝出汁白醤油、再仕込み黒醤油など、リピーター向けに種類がいろいろありましたが、旅行者の私たちは一番ベーシックな喜多方中華そばにしました。
あっさりとした醤油味のスープにチャーシュー、メンマ、ねぎ、なると、海苔という組合せで、東京ラーメンに近いですが、麺が縮れてやや幅広というのが特徴でしょうか。私好みのあっさりとした、ほっとするお味でした。
さて、食事の後はお濠をわたって、いよいよ鶴ヶ城へ。
戊辰戦争の激戦の末に大きな被害を受けた鶴ヶ城は、その後解体されましたが、1965年に鉄筋コンクリートで外観が再建されました。内部は博物館となっています。
私たちが到着した時、ちょうどボランティアガイドの方によるツアーがはじまる時間だったので申し込んだところ、参加したのは私たちと、出張で会津にいらしたらしい男性の3人のみ。この男性がどうやら出張の先々でお城を見学するのがご趣味のようで
ガイドの方も張り切って、気がつけば1時間以上の長いツアーになりました。ツアーはお城の外だけなので、主に石垣に関するマニアックな内容となりました。
太鼓門近くに、点線がついた大きな石がありました。これはこの大きな石が、後々切断されることになった時のための目印の切り取り線なのだそうです。
石段の中のひときわ大きな石は、魔除けとして入れられた石だそうです。かなり重いので、この石を入れる時は、遊女さんが上に乗って人夫さんたちを応援したそうで、遊女石とよばれているそうです。
自然石をそのまま積み上げた野面積みという方法。隙間や出っ張りがあるため、敵に登られやすいという欠点はありますが、排水性に優れ、丈夫なのだそうです。
表面を平らに加工した打込み接ぎという手法。野面積みより高く、急な勾配が可能となるそうです。さらに江戸時代に入ると、方形に整形した石材を密着して積み上げる切り込み接ぎという手法が取られるようになりました。
他にも門の造り等、貴重なお話をいろいろうかがいました。この後、ガイドの方と別れてお城に入りましたが、会津藩や白虎隊については日新館でひと通り見たので、軽く流して最上階の展望フロアへ。
360度の眺望を楽しみましたが、この写真がどこを撮ったものなのか覚えていない...。(おそらく飯盛山方向と、会津磐梯山だと思うのですが)
鶴ヶ城を後にして、一路東京へと帰りました。すっかり時間がかかってしまいましたが、裏磐梯・会津若松旅行記はこれでおしまいといたします。長らくおつきあいくださり、ありがとうございました。