滑川町大字月輪字矢尻の北側境から熊谷玉川県道に至る雑木林の中を通る人通りもない小路の途中に、地元の古老以外知らない小さな稲荷様の祠(ほこら)がひっそり建っている。この稲荷を長山稲荷といい、近年、朽ち果てていた小さな鳥居は新しく立て替えられた。
この道は小川方面から松山に至る街道として、また鬼鎮神社の繁栄に伴い東からの鬼神街道として、戦前までは多くの人々が行き交い、稲荷神社も毎年例祭が行われていたと聞いている。月輪境の三叉路と県道の四ツ辻(十字路)にあった鬼神道の道標も周囲の開発によりいつしかなくなってしまったが、稲荷前の小路を過ぎ、県道を横切り、住宅地内を北に向かう道がわずかにその名残(なごり)を留めている。
昭和五十四年(1979)、東松山-前橋間が開通した関越道は川島の東側、字屋田地内を通っている。その工事に伴い、昭和五十年(1975)初めに森田武治氏宅が移転と決まり、長山稲荷南側の月輪境に屋敷替えすることになった。新築に伴う上水道工事は地元の業者として私が請け負った。当時、県道の北側には農家以外に住宅はなく、水道配管は初雁安行氏宅裏の道より、鬼神道跡と言われた畑中の道を通り、県道を横切り、稲荷様の山道を月輪境の新築現場まで、長い距離(300m)をひかなければならなかった。当時の配管工事は、大きな掘削機もなく、刃のついたチェーンが回転して穴掘りをするトレンチャーと呼ぶ小型のものとほとんど人力によるものだったので、道路分の配管工事完成に数週間かかった。工事現場まで通水し、その後しばらくして森田家の新築工事が完成し、無事移転が終わったのである。森田さんのお宅は、数年前にご主人の武治さんが亡くなり、働き者の奥さんのやすさんとお子さんたちとで新居の生活が始まった。
後日、工事代金を支払うので来るようにとの連絡があり伺うと、大変ご苦労戴いたと酒肴が用意されており、精算を済ませて、大変御馳走になった。当時は、仕事の完成時に酒は慣例で、酒好きの私は一杯、二杯と酒が進み、かなり時間が過ぎていった。奥さんも新築完成の喜びか、知り合いの工事店相手の気安さか酒が進み、一升瓶の残りが少なくなって来た頃、笑顔で喜びのやすさんの顔と様子が変わって来た。酒が好きだとの世間の噂が思い出されて、夜も遅く時間も過ぎたのでとお礼を述べて帰ろうとすると、突然、やすさんが髪を振り乱して大声を上げた。
『お前は人様の家の前で穴掘り仕事をして、挨拶の一言もないのは何事だ』。突然の大声にのけぞって、、酒がまわり青白くなったやすさんの顔を見ると、一瞬、長山稲荷の狐の置物の顔に見えた。ご馳走酒のまわった私はぞっとして背筋が寒くなった。まぎれもない狐の顔に驚いて見直すと、大笑いをし、上機嫌で酒をすすめていた顔に変わりはない。何事のないやすさんの様子に冷や汗の私は、早々に新築の家を出た。
工事の際、迷惑のかかる近隣の家に対する挨拶は施工業者の常識だが、今回は畑中の道や林の小路の工事だから必要ないと思い込み、無信心の私は稲荷荷神社の前で一度も手を合わさずに通り過ぎていた。数週間の工事期間中の事を思い出し、その夜はなかなか寝付かれずに過ぎていった。不思議な事と思いながらも非常識な私に対する長山稲荷の戒めと思い、翌朝早々に参詣に伺い、今後の仕事の安全を願った。
工事業者として四十数年間を無事に過ごせたのも、この不思議な体験による戒めが私の人生に意義あるものとなったからだと、平成十五年(2003)の現在も忘れられぬ思い出である。
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