嵐山石造物調査会

嵐山町と近隣地域の石造物・道・文化財

地元町民の手で杉山城整備 1981年

2008年12月17日 | 杉山

   土塁など戦国時代のままに 嵐山の町民「杉山城」復元
 郷土の貴重な城址(じょうし)を守ろうと比企郡嵐山町の町民たちが、中世の山城「杉山城」を整備、県民たちが、じっくりかんしょうできる立派な史跡にに仕立て上げた。
 杉山城は、比企郡嵐山町から県道菅谷-寄居線を通って町道へ入った杉山地内にある。山の標高は、九十五・三メートルで面積は約七ヘクタール。武蔵七党に属する児玉党の一族が戦国末期に築城したとされる。
 自然の地形を生かした山城で、川越、松山、鉢形城など大きな城の守りや連絡の役割を果たしていた出城が砦(とりで)だったと推測されている。こうした城郭は、防御を中心に築かれているのが通常だが、杉山城は、小口のくい違い土塁で内部を目隠しにしたり、幅一メートル程度の狭い通路に斜面を付けて侵入してくる敵をどの地点からも攻撃できるように工夫され、攻防を兼ね備えた「陰陽和合の城」として城郭史上で全国的に貴重な資料となっている。この貴重な郷土遺産、県指定史跡として保護されていることになっているが、実際には放置されたまま。雑木が茂り、見るかげもなくなっていた。そこで立ち上がったのが杉山地内の住民たち。一年がかりで山に入ってしの竹や高さ二、三メートルの木を取り除き、史料をもとにくい違い土塁や空堀など中世をしのばせる遺跡を再生させた。
 南から「南三の郭」「南二の郭」「水の手郭」「本郭」「東二の郭」「東三の郭」「北二の郭」「北三の郭」、郭の周囲に築かれている高さ二メートルの土塁、深さ二メートルの空堀など。また、道路も戦国時代のままで復元されており、山すその積善寺から南三の郭を通って本郭から搦手口(からめてぐち)へ出るコースと本郭から東三の郭へ行き町道へ出る二本の散策コースも整えた。
 町民たちは、すっかり全貌(ぜんぼう)を現した城址をながめて、「年に一回、清掃をしていつまでも郷土遺産を守っていこう」と話し合っている。

19810509

     『読売新聞』1981年(昭和56)5月9日


最新の画像もっと見る

コメントを投稿